曽祖父が大地主だったにもかかわらず、祖父が財産を全て吹き飛ばして破産となり、幼少期に里子に出されるなど苦労を強いられた母親のイクさんですが、その分、自分の子供にはそんな思いはさせじと、愛情たっぷりに育てられた、武田鉄矢(たけだ てつや)さん。今回は、そんな武田さんの若い頃について調べてみました。

「武田鉄矢の父は母の婿養子!曽祖父は大地主も祖父が破産していた!」からの続き

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少年期を幸せな家庭で育つ

こうして、嘉元さん(武田さんのお父さん)とめでたく結婚されたイクさん(武田さんのお母さん)は、1936年には長女のミヤさん、翌年の1937年には長男の義武さん、そして、1947年には次男の武田さんを出産。

武田さんが幼い頃は、夫婦げんかの声や食卓から笑い声が聞こえるなど、とにかくにぎやかだったそうで、それは、イクさんが幼少期から憧れた一つ屋根の下に集まる家族の姿だったのでした。

ちなみに、武田さんは、

にぎやかな家庭でしたよね、本当に

母の強烈な母性が、10歳になる前に父母から捨てられたという深い心の傷みたいなものが影としてあって、しゃにむに暗さを断ち切ろうとするような切ないものは感じていた。

と、語っておられます。

がむしゃらに働き続けた母親

その後、イクさんは、子育てのかたわら、10代の頃に習得したミシンの腕を活かし、裁縫の内職を始めると、武田さんはじめ子どもたちの心配をよそに、裁縫以外にも、自宅でたばこを売ったり、豆腐の行商をするなど、仕事を広げていくのですが、イクさんがこれほどまでに働き続けるのには理由がありました。

実は、1959年のある日のこと、イクさんが8歳の時に離婚し、家を出ていった実母(武田さんの祖母)ヒロさんが、突然、博多の家を訪ねてきたそうで、

当初は穏やかな雰囲気だったそうですが、イクさんの長男(武田さんのお兄さん)の大学進学の話になり、ヒロさんがそのことをなじると、

イクさんは、

ウチは絶対に養女とか養子に子どもを出さん。勉強したいと言ったらウチは、どんなに働いてでも学校へ行かせてやる。それをさせんやつは親じゃなか。

と、言い放ったというのです。

つまり、家を二度も追い出されてきたイクさんは、自分の子供には決してそのような辛い思いをさせたくないと、強く心に誓われており、それがイクさんをがむしゃらに働かせる原動力となっていたのでした。

教師を目指し大学に進学するもフォークに目覚める

そんな母イクさんのもと成長した武田さんは、1969年、教師を志して、福岡教育大学に入学されるのですが、高校時代の同級生たちに誘われて、フォークグループ「ヤング・ラディーズ」を結成。

(武田さんが教育実習で教壇に立った時は、生徒たちに大人気だったとか)

その後、アマチュアサークル「ヴィレッジ・ボイス」に入会されるのですが、その際、会長の山本良樹さんにグループ名を聞かれて、とっさに「海援隊」と答えてしまったそうで、それ以来、グループ名は「海援隊」となったのだそうです(笑)

(「海援隊」とは、幕末に坂本龍馬が中心となって結成した組織の名前で、武田さんが、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を読んで感動したことから名付けられたそうです)

ライブ喫茶「照和」で「海援隊」が人気を博す

当初は、須崎公園で練習していた武田さん達「海援隊」でしたが、季節が冬に近づき、だんだん寒くなってきて、メンバーの出席率が悪くなってくると、

1970年の冬からは、須崎公園ではなく、ライブ喫茶「照和」に活動の場を移し、ブルース、ハードロックなどを演奏するように。

(武田さんは店員のアルバイトも兼ねていたそうです)

すると、次第に「海援隊」は人気を博し、当時、「照和」で一番人気だった財津和夫さん率いる「チューリップ」と1位、2位を争うほどの人気ブループとなっていったのでした。

(「照和」は、当時の福岡・九州のミュージック・シーンを支える存在で、若手ミュージシャンたちは、店の食事をギャラ代わりにステージに上っていたのですが、演奏が下手だと、客があっさりと帰ったり、辛辣な野次が飛ぶなど、目の肥えた厳しい客が多かったことから、とても鍛えられたそうです。また、福岡は、多くの芸能人を輩出していることから、ビートルズを生んだリバプールにちなんで、「日本のリバプール」と呼ばれていた時期もあったそうです)

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「チューリップ」にドラムスを引き抜かれ「海援隊」が解散危機に

ところで、1970年代はじめ、「照和」では、「チューリップ」「海援隊」が最も人気があったのですが、「チューリップ」のメジャーデビューが決定すると、「海援隊」のドラマーだった上田雅利さんが、その力量を財津和夫さんに認められ、「チューリップ」に引き抜かれてしまったそうです。

そのため、「海援隊」は、一時、解散状態となってしまうのですが、ちょうど同じ頃、千葉和臣さん・姫野達也さんによるバンド「ライラック」も、姫野さんが「チューリップ」に引き抜かれたことで解散しており、

残された千葉さんが、その美声とギターの上手さを買われて、「海援隊」に入ることとなり、1970年には、武田さん、千葉さん、中牟田俊男さんの3名で「海援隊」が再編成されています。

(ちなみに、武田さんによると、「チューリップ」は「照和」の閉店後、午後11時から翌朝7時まで店を借りて、猛練習をしていたそうで、練習中、コーラスのハーモニーを乱したメンバーがいると、財津さんは、メンバーに間違えたことを白状させたうえ、顔面を平手打ちする鉄拳制裁を加えるなど、厳しい修練を積んでいたそうです)

「武田鉄矢の昔は泉谷しげるのスカウトで上京し母に捧げるバラードがヒット!」に続く

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