「発達障害」で小学校を1年生で退学となるも、「トモエ学園」に編入し、校長先生と出会ったことをきっかけに、自分の居場所を見つけた、黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)さん。しかし、やがて戦争に翻弄されることになります。
「黒柳徹子の幼少期は発達障害で小学1年で退学させられていた!」からの続き
弟の死と父の出征
個性を尊重してれる「トモエ学園」に通うようになり、すくすくと自由に育たれた黒柳さんですが、太平洋戦争の気配が漂い始めた1944年、11歳の時には、仲の良かった、すぐ下の弟の明兒さんが、ボールが足に当たって内出血したことが原因で、熱を出し、あっという間に亡くなってしまいます。
家族を失い、悲しみの底に沈んだ黒柳家でしたが、悲しみが癒えぬ中、間もなく、お父さんが召集令状を受けて中国戦線に出征。
また、1945年には、東京大空襲がきっかけとなり、黒柳さんも、お母さんとともに、青森県三戸郡の諏訪ノ平というところに疎開することになるなど、家族はバラバラになってしまったのでした。
疎開先はりんごが縁
ところで、なぜ、黒柳さんが青森県三戸郡の諏訪ノ平に疎開されたかというと、黒柳さんのお母さんの実家が北海道にあり、数年前、北海道から帰る汽車の中で、黒柳さんの隣に座ったのが、青森県三戸郡の諏訪ノ平で農業を営む、沼畑周次郎さんだったそうで、
窓の外を見ていた黒柳さんが、沼畑さんに、
あの木は何の木?
と、尋ねると、
沼畑さんは、
リンゴの木だよ。リンゴ好きかい?
と、答えてくれたそうで、
黒柳さんが、
大好き!
と、答えると、
沼畑さんは、
じゃ、送るから
と言ってくれたそうで、
その後、黒柳さんの家にリンゴが届いたことがきっかけで、沼畑さんとの手紙のやりとりが始まり、沼畑さんの息子さんが上京した際には、黒柳家に下宿するほどの仲になったのでした。
疎開先でも度々死と隣合わせ
こうして、諏訪ノ平に疎開された黒柳さんでしたが、戦争中の食糧難で、1日に大豆を15粒しか食べることができず、「栄養失調」が原因で全身に「おでき」ができ、手足の爪の間が化膿(かのう)。
それでも、医者はおらず、痛いのを我慢している状態だったそうですが、自分で治すしかないと、お母さんと一緒に、諏訪ノ平でとれた果物や野菜をかついで八戸港に行き、魚と物々交換し、煮魚を食べ始めて、約10日で完治したのだそうです。
また、黒柳さんは、疎開中に一時、北海道に里帰りされているのですが、その帰りに、北海道から青函連絡船で青森駅に着くと、そこから諏訪ノ平まで行く汽車は翌朝までなかったそうで、お母さんは、駅で一晩過ごそうと言われたそうですが、
黒柳さんが、八戸までしか行かない汽車の乗降口の取っ手につかまり、
これに乗る!
と、だだをこねたそうで、お母さんもしかたなく、その八戸止まりの汽車に乗り、夜遅く八戸に着くと・・・
後に、青森が空襲を受けたと知ったそうで、
あのまま一夜を明かしてたら、私たちはこの世にいなかったかもしれません。
と、黒柳さんは、戦争の中、ぎりぎりのところで生きてこられたのでした。
「NHK放送劇団」の俳優募集に応募
その後、いつ頃かは不明ですが、東京へ戻られ、
(お父さんは、出征して以来、音信不通となっていたそうですが、シベリアに抑留されていたそうで、1949年末にようやく帰国されたそうです)
中学校を経て音楽学校に入ると、オペラ歌手を目指されるのですが、歌詞が覚えられなかったほか、ベートーベンの「悲愴」と「未完成交響曲」の区別がつかなかったことから、自分には無理だと感じたそうで、
そんなある日のこと、銀座で見た人形劇に感銘を受け、
いつか結婚して、普通の奥さんになるのなら、子供が生まれたとき、上手に絵本の読めるお母さんになろう。
と、ぼんやりと、自分の将来を考えたそうです。
そこで、黒柳さんは、お母さんにどうしたらいいか聞くと、お母さんから、
新聞に載ってるんじゃない?
と、言われたため、早速、新聞を広げてみたところ、
NHKでは、テレビジョンの放送にあたり、専属の俳優を募集します。プロの俳優である必要はありません。一年間、最高の先生をつけて養成し、採用者はNHKの専属にします。
という、「NHKテレビ俳優募集」の広告が目に留まったそうで、
黒柳さんは、「NHK放送劇団」が素人でも1年間養成してくれるのなら、もしかしたら、絵本の読み方を教えてくれるかもしれないと、早速、「NHK放送劇団」の俳優募集に応募し、試験を受けられたのでした。
(実は、NHKが俳優募集の広告を出したのは、その日1日だけだったそうで、たまたま、黒柳さんがお母さんに聞いた日が、まさにその日だったと、黒柳さんは後に知ったそうです。)
「黒柳徹子の若い頃はNHK放送劇団!レギュラー週10本も過労で入院し全降板!」に続く
戦争中、青森県三戸郡の諏訪ノ平に疎開されていた頃の黒柳さん。