精神科医を目指して猛勉強するも、高校2年生の時に体を壊して断念せざるを得なくなり、目標を見失ってしまったという、岩下志麻(いわした しま)さんですが、その後、軽い気持ちでテレビドラマに出演したことがきっかけで、女優人生が始まります。

「岩下志麻は幼少期に臨死体験!霊感の強い少女で精神科医を目指していた!」からの続き

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「バス通り裏」でテレビドラマデビュー

精神科医になるという目標を失い、途方にくれていた岩下さんですが、そんな折、お父さんの知り合いのNHKのプロデューサーに誘われ、放送開始して間もないテレビドラマ「バス通り裏」(1958年)に、気分転換として、軽い気持ちで出演されると(十朱幸代さんの友人役)、

続く、テレビドラマ「青空通り」(1958)、「風立ちぬ」(1958)などにも出演されます。


「バス通り裏」より。岩下さんと十朱幸代さん。

「松竹」に入社

そして、1960年には、人気スキーヤー・トニー・ザイラーさん(1956年冬季オリンピックのアルペン三冠王のオーストリア人)を主演に迎えた松竹映画「銀嶺の王者」で、相手役の女優(ヒロイン)が骨折し、急遽代役が必要となったため、岩下さんはカメラテストを受けることに。

ただ、残念ながら、採用とはなりませんでしたが、岩下さんの女優としての資質に目を留めた木下恵介監督に勧めで、岩下さんは「松竹」に入社されたのでした。

(ちなみに、代役女優は鰐淵晴子さんに決定しています)

「松竹」では先輩からイジメられていた

それでも、その頃の岩下さんは、まだ本気で女優でやっていこうとは思っていなかったそうで、「松竹」に入ってからも、「人を押しのけてまでスターになりたい」という欲がなく、とてものんびりされていたことから、ついたあだ名は「駆けずのお志麻」だったとか。

また、そんな岩下さんに腹を立てたのか、先輩からは随分とイジメられたそうです。

篠田正浩監督作品「乾いた湖」の主演で映画デビュー

その後、岩下さんは、映画「乾いた湖」の主演を探していた(後に岩下さんのご主人となる)篠田正浩監督と脚本を担当した寺山修司さんに呼ばれ、神楽坂の旅館に面接を受けに行かれると、見事合格し、1960年、「乾いた湖」の主演で映画デビューを果たされているのですが、


「乾いた湖」より。岩下さんと三上真一郎さん。

岩下さんは、後に、

あのとき主役に抜てきされなかったら、いまの私はありません。

篠田が映画に対して情熱的に語るのを聞いているうちに、映画の魅力に目覚めて、「もっといい女優になりたい」という気持ちが、徐々に決意になっていったんです。

と、この映画で主役に抜擢されたことがきっかけで、女優としてやっていこうと思うようになったそうです。

(実は、岩下さんの映画出演第1作は木下恵介監督の「笛吹川」だったのですが、撮影が長期化したため、公開が後になり、続いて出演された、この「乾いた湖」が岩下さんのデビュー作となっています。)

小津安二郎監督から10年に1人の逸材と絶賛される

また、岩下さんは、同年、小津安二郎監督映画「秋日和」に受付嬢の役で出演されているのですが、ほんの数シーンの出演だったにも関わらず、小津監督にその才能を見出され、

10年に1人の逸材だから大切に育てるように

と、小津監督は、「松竹」の幹部達におっしゃったといいます。

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主演映画「あの波の果てまで」が大ヒット

そんな岩下さんは、翌年の1961年には、「松竹」から、血筋、容姿、ムード、全て申し分なしと、「第二の岸惠子として売り出され、

同名の人気ドラマの映画化「あの波の果てまで」の主演に抜擢されると、この映画は、「前編・後編・完結編」と3部作が公開されるほどの大ヒットを記録。


「あの波の果てまで」より。岩下さんと津川雅彦さん。

その後も、岩下さんは、

1961年「女舞」
     「好人好日」
     「わが恋の旅路」

と、立て続けにヒロインを務められ、桑野みゆきさん、鰐淵晴子さんとともに、「松竹」の期待の星として活躍されたのでした。

「岩下志麻の若い頃は清純派女優として人気を博していた!」に続く

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