6歳の時、日比谷公会堂でヴァイオリンを演奏して以来、「天才少女ヴァイオリニスト」として活動されると、その後、子役デビューし女優に転身された、鰐淵晴子(わにぶち はるこ)さん。そんな鰐淵さんの、女優として活躍されるまでの経緯について調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

鰐淵さんは、1945年4月22日生まれ、
東京都のご出身、

身長165センチ、
体重48キロ、

学歴は、
大西学園高校卒業、

趣味・特技は、テニス、乗馬、園芸、料理、

ちなみに、「鰐淵晴子」は本名です。

父母は?ハーフ?

鰐淵さんは、お父さんが日本人、お母さんがオーストリア人の、ハーフなのですが、

なんと、お母さんは、オーストリア帝国の皇室(ハプスブルク家)の末裔で、ベルタさんというそうで、昔、NHKラジオのドイツ語講座で歌を歌われていたことがあるほか、1959年の日本映画「いつか来た道」では、通訳の役で出演されていたそうです。

(「いつか来た道」は、ウィーン少年合唱団の二度目の来日を記念して製作されたそうです)

また、お父さんは、NHK交響楽団のコンサートマスターを務められたこともある、ヴァイオリニストの鰐淵賢舟(本名・鰐淵仁四郎)さんだそうです。


(前列左から)お母さん、鰐淵さん(14歳)、(後列左から)妹の朗子さん(13歳)、お父さん。

「天才少女ヴァイオリニスト」と呼ばれる

そんな鰐淵さんは、3歳半ばから、お父さんの指導のもとヴァイオリンのレッスンを受けるようになると、6歳の時には、お父さんとともに日比谷公会堂でヴァイオリンを初演奏。

そして、同年、「NHKのど自慢大会」にも出場されると、その愛らしさからか、以降、音楽会、雑誌のモデルなどでも活動されるようになり、


1951年「アサヒグラフ」の表紙を飾りました。


7歳の鰐淵さん。ヴァイオリニストとして「毎日グラフ」(1952年7月10日号)の表紙を飾りました。

1952年、7歳の時には、劇中で、ヴァイオリンを弾かせてくれることを条件に、映画「母子鶴」若尾文子さんの幼年期を演じて子役デビュー。

1953年、8歳の時には、全国を演奏旅行し、「天才少女ヴァイオリニスト」と称されるようになります。

「ノンちゃん雲に乗る」で原節子の再来と呼ばれる

そして、1955年、10歳の時には、映画「ノンちゃん雲に乗る」で主演の田代信子(ノンちゃん)役を務めると、大きな話題を集め、映画会社各社が鰐淵さんを獲得すべく動き出すのですが、お父さんが映画界入りを強く反対したため、しばらくは音楽に専念。


「ノンちゃん雲に乗る」より。鰐淵さんと原節子さん。

ただ、その後、どのような経緯かは不明ですが、1959年、15歳の時、映画「乙女の祈り」の主演で映画界に復帰すると、松竹と専属契約を結び、同年、映画「わかれ」に出演。

ファニーフェイスが流行する当時の映画界において、正統派な美貌を持つ鰐淵さんは、原節子の再来」とまで言われ、「伊豆の踊り子」「明日はいっぱいの果実」「あんみつ姫の武者修行」(いずれも1960年)と、次々と主演を務められたのでした。


「伊豆の踊り子」より。津川雅彦さんと鰐淵さん。

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英語とドイツ語が堪能

また、鰐淵さんは、英語とドイツ語が堪能だったため、スキー映画「銀嶺の王者」では、主演のトニー・ザイラー(1956年冬季オリンピックのアルペン三冠王のオーストリア人)の相手役(ヒロイン)に抜擢されるほか、その後も、

1961年「猟銃」
1962年「晴子の応援団長」
1963年「丹下左膳」
     「ローマに咲いた恋」

1964年「二十一歳の父」

と、立て続けにヒロインを務め、松竹の看板スターとして活躍されたのですが、日本映画産業全体が斜陽化すると、デビュー当時ほど作品に恵まれなくなり、1965年には松竹を退社。

その後は、東映映画「花札渡世」(1967)、大映映画「眠狂四郎無頼控・魔性の肌」(1967)に出演されています。

「鰐淵晴子の若い頃は夫撮影でヌード写真?娘は?妹とは骨肉の争い?」に続く

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