将来、子どもに絵本をうまく読んであげるにはどうしたらいいかと、お母さんに聞くと、新聞を見ればいいと言われ、新聞を見ると、たまたま、その日が、「NHK放送劇団」が俳優募集をした唯一の日だったという、黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)さんですが、なんと、6000人もの応募者の中から、見事、合格を果たされます。

「黒柳徹子の少女時代は死と隣合わせ!弟は死に父親は抑留されていた!」からの続き

Sponsored Link

「NHK放送劇団」の合格理由は無色透明

奇跡的なタイミングで、「NHK放送劇団」の俳優募集を目にした黒柳さんは、早速、応募し、試験を受けられると、第一次試験の「演技」テスト、第二次試験の「筆記」テスト、第三次試験の「パントマイム」テスト、第四次試験の「歌」テストと、次々とクリアしていきます。

しかし、最後の面接では、

親に言ったら、こんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…

こういう世界は、騙す人が多いから、気をつけろという話を聞く

などの、失言を連発。

にもかかわらず、なんと、6000人もの応募者の中から、見事13人の合格者の一人として劇団員に合格。

実は、黒柳さんは、演技は素人で、筆記試験も25問中5問しかできず、長所の欄に「素直」「親切」、短所の欄に「大喰い」と書いただけで、試験の成績は散々だったそうですが、

テレビジョンという新しい世界の俳優は、あなたみたいな何もできない、何も知らない、言い換えると、無色透明な人が向いているかもしれない。

と、採用されたのでした。

初めの一年間は役を降ろされてばかり

その後、黒柳さんは、「テレビ女優第一号」として、華々しくデビューするはずだったのですが・・・

個性が強すぎる。
個性が邪魔だ。
目立つ。
普通じゃない。
ヘンな声だ。
喋り方を明日までに直せ!
みんなと同じにできませんか?

と言われ、初めの一年間は、役を降ろされてばかりだったそうです。

飯沢匡との出会いで才能発揮

さすがに途方にくれていた黒柳さんですが、そんな時(1954年)、NHKがラジオ番組「ヤン坊ニン坊トン坊」を制作するにあたり、子どもの声で話せる大人の俳優を選ぶため、初めてオーディションを募集したそうで、黒柳さんは、応募し、オーディションを受けると、見事合格。トン坊役に抜擢されます。

そして、黒柳さんは、これまで、役を降ろされてばかりだったことから、もう降ろされたくないと、初対面の劇作家・飯沢匡さんに、挨拶もしないまま、

私、日本語も喋り方も歌い方もヘンだとみんなに言われています。個性も引っこめます。勉強して、ちゃんとやりますから。

と言ったそうですが、

飯沢さんは、

直しちゃいけません。あなたの喋り方がいいんですから。どこもヘンじゃ、ありません。そのままで、いて下さい。

それが、あなたの個性で、それを僕たちは必要としているんですからね。心配しなくても大丈夫。いいですね? 直すんじゃ、ありませんよ。あなたの、そのままが、いいんです!

と、言ってくれたのだそうです。

その後も、黒柳さんは、芝居をする時、

どうすればいいですか?

とアドバイスを求めると、

飯沢さんはいつも、

元気におやりなさい、元気に!

と答えられたそうで、

この言葉に勇気づけられた黒柳さんは自信を取り戻し、やがて、「ヤン坊ニン坊トン坊」は評判となり、その後、「NHK三人娘」として売り出されると、順調に仕事は増えていき、

それから4年後の1958年には、当時では異例の、25歳の若さでの「NHK紅白歌合戦」(第9回)の紅組の司会者を務めるまでになられたのでした。

ちなみに、後に、黒柳さんは、飯沢さんに言われた話について、著書「トットひとり」に、

こんな言葉は、NHKの誰一人、それまで言ってくれたことがなかった

私はその後、何度も何度も、飯沢先生の言葉を思い出した。いくら呑気者で元気な私でも、「邪魔」とか「帰ってもいいや」とかばかり言われ続けていたら、まともなことを、何ひとつできない大人になっていたかもしれなかった

と、綴っておられます。

Sponsored Link

過労で入院しレギュラー番組を全て降板

そのため、黒柳さんは、20代後半の頃には、テレビやラジオのレギュラーが週に10本、平均睡眠時間3時間という日々が続いたそうで、

ある日のこと、テレビの本番中に耳鳴りがして、相手役のセリフが聞こえなくなってしまい、さらに翌日には、めまいがしたため、病院に行くと、医者からは「過労」と診断され、

休まなければ死ぬよ

と、入院を勧められます。

それでも、黒柳さんは、医者の勧めに従わず、そのまま仕事を続けていると、それから3日目の朝、足に真っ赤な花弁のような斑点がいくつもできていたそうで(それは、過労から赤血球が激減し、毛細血管が切れたためにできたあざだったそうです)、1ヶ月の入院を余儀なくされ、それまでのレギュラー番組は全て降板してしまったのでした。

そして、入院して1週間ぐらいした頃、テレビは観てもいいと言われ、自分の出ていた番組を観ていると、

すぐ別の人が、「今日から私がやります」なんて言ってるの。誰も、「黒柳さんは1ヵ月で帰ってきます」とは言ってくれないんです。

そのとき、渥美清さんの奥さん役をやっていたんですけど、渥美さんも「奥さん、どうしました?」って訊かれて、あっさり「実家に帰ってます」なんて答えていて。

と、自分の代わりはいくらでもいると、なんとも言えない寂寥(せきりょう)感と無力感に襲われたそうですが、

ふと、思い立って、病院の医院長先生に、

死ぬまで病気をしない方法はありませんか?

と、尋ねると、

医院長先生は、静かに、

自分でいやだと思った仕事はしないこと。やりたいことだけをやりなさい

と、答えられたのだそうです。

「黒柳徹子の若い頃は文学座研究生だった!」に続く

Sponsored Link