20代後半の頃には、テレビやラジオのレギュラーが週に10本、平均睡眠時間3時間という超多忙な毎日を過ごし、ついには、過労で入院することとなり、すべてのレギュラー番組を降板することとなった、黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)さんですが、退院後も、やはり、変わらず、タイトなスケジュールで多忙な日々を送られると、やがて、もっと演技がうまくなりたいと思い始めます。
「黒柳徹子の若い頃はNHK放送劇団!レギュラー週10本も過労で入院し全降板!」
「文学座」付属の研究所で芝居を学ぶ
黒柳さんは、はじめから女優になりたいと思っていた訳ではないのですが、テレビやラジオで俳優たちと共演を重ねるにつれ、その存在感やお芝居の上手さに感銘を受けたそうで、やがて、自分も、縁あって女優になったからには、もっとうまくなりたいと思い始めたそうです。
そして、なぜ、彼らがこんなにお芝居が上手なのだろう、と考えた結果、俳優たちには舞台の経験があることに気がついたそうで、
そこで、「文学座」の創設者の一人である、杉村春子さんに、
文学座に入りたいんです
と、相談されると、
杉村さんには、
あらっ! いいじゃない。いらっしゃい!
と、歓迎されたそうですが、
最終的には、黒柳さんの入団を反対する人が一人だけ(宮口精二さん)いたことから、「文学座」への入団はかなわず。
それでも、黒柳さんは、「文学座」付属の研究所で演劇を勉強されると、その頃から、テレビの仕事と並行して、舞台の仕事も増やしていかれたのでした。
舞台「スカーレット」出演中にニューヨーク留学に誘われる
そんな中、黒柳さんは、帝国劇場の舞台「スカーレット」のオーディションを受けると、見事、ヒロイン・スカーレット・オハラの妹、スエレン役に選ばれ、約3ヶ月間、帝国劇場の舞台に立たれていたのですが、
やがて、作曲家のハロルド・ローム夫妻と親しくなり、ローム夫人のフローレンスさんから、
面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!
と、誘われます。
(「スカーレット」は、世界で初めて、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」を日米合同スタッフがミュージカル化したもので、脚本は菊田一夫さん、作詞・作曲はハロルド・ロームさん、振り付けと演出はジョー・レイトンさん、衣装・舞台美術などはアメリカのスタッフが担当し、当時、制作費は5億円とも言われました。)
ニューヨーク留学を決意
すると、NHKに入社して15年間、朝起きて、
さあ、今日は何をしようかしら
と、思ったことは一度もないほど、毎日のスケジュールはびっしり決まっていて、一度でいいから、そういう生活をしてみたいと思われた黒柳さんは、ニューヨークへの留学を決意。
ちなみに、黒柳さんは、留学を決意した理由について、
仕事だけを見れば、「今が最高なのに、どうして留学なんかするの?」と思われるような時期でした。「帰ってきて、もし仕事がなかったらどうするの?」とも聞かれました。
でも私は、15年、テレビやラジオのお仕事をしてきて、1~2年日本を離れたからといって忘れられたら、それは私に実力がなかったということ。私は身体も丈夫だし、他のことだってできるだろうと思ったのです。
たまたま、女優という道を選んだけれど、これは、女として生まれて人生を歩んでいくとき、踏み出した道が女優であったということなんだ。
女優という職業は、創造的な仕事で、私、とても好きなんだけど、もし、そうでなくなっても、いまと同じように、自分らしく生きていこう、不安がっていても、仕方がない、と、出発したのでした。
と、明かされているのですが、
そのほか、当時のマネージャーからは、
休んでらっしゃい!
と、明るく言ってもらい、
山岡久乃さんからは、
あなたは独身で身軽なんだから、ゆっくり休んできて
森光子さんからは、
お小遣いがなくなったら言ってね
と、言ってもらったことも、大きく背中を押してくれたのだそうです。