両親の期待に応えるため、一浪までして受験するも失敗し、その後も、両親の意向に従い、一旦は教員になられた、小津安二郎(おづ やすじろう)さんですが、一年で教員を辞めると、ついに、映画への想いを両親に打ち明けます。
「小津安二郎監督の生い立ちは?昔は学校の先生だった!」からの続き
松竹蒲田撮影所で下積み
一旦は両親の意向に従って教員になるも、一年で教員を辞めた小津さんは、ついに、捨てきれない映画への熱い想いと、映画の仕事がしたい旨を、東京に戻っていた家族に打ち明けるのですが・・・お父さんは猛反対。
ただ、当初は優等生であることを期待していたお母さんや家族が味方になって、お父さんを説得してくれたことから、小津さんは、晴れて映画への道に進むことになります。
そして、1923年の夏、「松竹蒲田撮影所」に入社されると(叔父さんが地所を貸していて縁があったことから)、撮影助手の仕事に就き、カメラマンとしては碧川道夫さんや酒井健三さん、監督としては島津保次郎さんや牛原虚彦さんらの下について、映画製作を学ばれます。
関東大震災
こうして、小津さんは「松竹蒲田撮影所」に入社されるのですが、その直後の9月1日には「関東大震災」が発生。
この非常事態に対処するため、「松竹」社長の大谷竹次郎さんの娘婿・城戸四郎さんが臨時所長として「松竹蒲田撮影所」にやってくると、映画監督・島津保次郎さんらと今後の「松竹蒲田撮影所」の方向性について話し合い、「松竹蒲田撮影所」では現代劇をメインにしていくことに決まります。
そして、翌年の1924年には、城戸さんが正式に所長に就任し、「松竹蒲田撮影所」は現代劇の製作スタジオとして、次々に優れた作品を生み出していったのでした。
(城戸さんは、「俳優研究所」も併設し、笠智衆さんなどを輩出しています)
時代劇「懺悔の刃」でデビュー
さておき、小津さんは、同年12月には、当時の徴兵制度に従って、一年間、志願兵として入隊。
翌年の1925年12月には除隊し、職場復帰されると、”助監督”として大久保忠素さんのもとにつき、現場で映画製作のノウハウを体得しながら、監督として必須のシナリオ執筆に励みます。
すると、そのうちの一本、「瓦版カチカチ山」(映画化はされず)が、城戸さんの目に留まり、これを受けてか、1927年8月には、小津さんは、念願の”監督”昇進を果たします。
こうして、小津さんは、初の監督作品、時代劇「懺悔の刃」の撮影を開始すると(小津さんの作品の中で唯一の時代劇)、スケジュールの調整、セット作り、俳優への演技指導と、映画監督として充実した毎日を送られるのですが・・・
完成直前で、思いがけず「予備役召集」がかかってしまい、やまなく、完成は斎藤寅次郎さんに託して入隊されており、
小津さんは、後に、「懺悔の刃」については、監督デビュー作品にもかかわらず、
自分の作品のような気がしない
と、語っておられます。
「懺悔の刃」
「小市民映画」の第一人者として高い評価を得る
その後、「予備役召集」から戻り、監督に復帰した小津さんは、同年11月、城戸さんの号令によって、時代劇部が京都に移転し、「松竹蒲田撮影所」が現代劇に特化することとなったことから、
1928年「若人の夢」(現存せず)
「女房紛失」(現存せず)
「カボチヤ」(現存せず)
「引越し夫婦」(現存せず)
「肉体美」(現存せず)
1929年「宝の山」(現存せず)
「学生ロマンス 若き日」(現存)
「和製喧嘩友達」(現存)
「大学は出たけれど」(一部が現存)
「会社員生活」(現存せず)
「突貫小僧」(一部が現存)
「和製喧嘩友達」
「学生ロマンス 若き日」
「大学は出たけれど」
「突貫小僧」
1930年「結婚学入門」(現存せず)
「朗かに歩め」(現存)
「落第はしたけれど」(現存)
「その夜の妻」(現存)
「エロ神の怨霊」(現存せず)
「足に触つた幸運」(現存せず) 「お嬢さん」(現存せず)
「朗かに歩め」
「落第はしたけれど」
「その夜の妻」
と、驚くべきハイペースで次々と現代劇を製作。
そして、その後は、
1931年「淑女と髯」(現存)
「美人哀愁」(一部が現存)
「東京の合唱」(現存)
「淑女と髯」
「美人哀愁」
「東京の合唱」
1932年「春は御婦人から」(一部が現存)
「大人の見る繪本 生れてはみたけれど」(現存)
「青春の夢いまいづこ」(現存)
「また逢ふ日まで」(一部が現存)
「春は御婦人から」
「青春の夢いまいづこ」
「また逢ふ日まで」
と、世界恐慌の影響で製作数は減るものの、続け様に現代劇を製作されると、小津さんは、「小市民映画」と呼ばれるジャンルの第一人者として高い評価を得たのでした。