ある年代以上の人は、必ず目にしたことがあると思われる、悪役で有名な俳優、成田三樹夫(なりた みきお)さん。今回は、そんな成田さんの、生い立ちから俳優として活躍されるまでの経緯について調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

成田さんは、1935年1月31日生まれ、
山形県酒田市のご出身、

身長173センチ、

本名は「成田三樹夫」(芸名と同じ)で、愛称は「ミッキー」、

学歴は、
山形県立酒田東高等学校
⇒東京大学中退(1年)
⇒山形大学人文学部英文学科中退(2年)

趣味は、将棋(三段)と俳句、
(将棋はNHKの将棋番組にも出演されています)

ちなみに、お父さんは法務省の役人、お兄さんは、東京大学を卒業後、岡山大学でドイツ文学の教授をされていたそうです。

役人になるため東京大学に入学

成田さんのお父さんは、法務省の役人だったのですが、学生時代は、川口松太郎さんや佐々木孝丸さんと知り合われて演劇同好会に入り、脚本を書くなど、演劇活動をされていたそうで、

成田さんは、そんなお父さんの影響から、高校3年生の時には文化祭でチェーホフの「煙草の害について」という一人芝居を演じられるなど、お芝居に興味を持ったそうです。(成田さんいわく「好評だった」そうです)

ただ、子どもの頃から、お父さんに、

役人になれないと人生の意味がない

と教育されていたことから、

役人になるため、ひたすら勉強をされていたそうで、その努力が実り、東京大学に合格されます。

「俳優座養成所」卒業後「大映」と大部屋俳優契約

しかし、「水が合わない」との理由から、せっかく入った東京大学を1年で中退されると、その後は故郷に戻り、山形大学人文学部英文学科に入学。

そして、この山形大学も、

勉強する意味がわからなくなった

と、2年半で中退されます。

そんな成田さんは、「芝居をやりたい」との気持ちが忘れられなかったそうで、1959年、24歳の時に、「俳優座養成所」に第12期生として入所されると、1963年、28歳の時には、「俳優座養成所」を卒業。

ただ、その後、劇団からスカウトがなかったため、当時、市川雷蔵さん、勝新太郎さん、若尾文子さんらスターが勢揃いしていた「大映」で自分の力を試そうと、東京・京橋にあった「大映」本社に自ら出向き、大部屋俳優として契約されたのでした。

「座頭市地獄旅」の浪人役で敵役

こうして「大映」に入社された成田さんは、1963年、映画「高校三年生」舟木一夫さん主演)の端役で俳優デビューされると、翌年の1964年には、「殺られる前に殺れ」「検事霧島三郎」「ごろつき犬」などで、端正なルックスとニヒルな雰囲気を持つ敵役として頭角を現し、

1965年には、映画「座頭市地獄旅」で、普段はクールだが将棋狂い、待ったをかけると殺気が燃え上がり、市(勝新太郎さん)と対決する浪人・十文字糺役で強烈な個性を発揮し、たちまち、敵役として不動の地位を確立。


「座頭市地獄旅」より。

以降、主に勝新太郎さんや市川雷蔵さんの敵役を務めつつ、映画「ある殺し屋」では、市川雷蔵さんの弟分という準主役を演じられたほか、

1966年には、テレビドラマ「土曜日の虎」で、主演(社会の悪と闘う私立探偵的な企業コンサルタント役)を務められるなど、幅広く活躍されたのでした。

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「東映」入社後はヤクザ映画の常連俳優として

ただ、1970年代に入り、日本映画産業全体が斜陽化すると、「大映」を退社。その後は、1972年、「石原プロ」制作の「影狩り」シリーズ(「影狩り」「影狩り ほえろ大砲」)などに出演し、


「影狩りシリーズ」より。

1973年には、「東映」に入社され、「狼やくざ 葬いは俺が出す」千葉真一さん主演)、「仁義なき戦い」シリーズ(「仁義なき戦い 広島死闘篇」「仁義なき戦い 代理戦争」)に出演。


「仁義なき戦いシリーズ」より。

以降、「東映」の実録ヤクザ映画の常連俳優として活躍されたのでした。

「成田三樹夫の仁義なき戦いほか出演ドラマ映画を画像で!」に続く

https://www.youtube.com/watch?v=13QRbGWqeDk

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