地元・広島に預けていたドラムセットを取りに戻るも、親戚から思いもよらない言葉を吐かれ、ドラムセットを奪い取られた、矢沢永吉(やざわ えいきち)さんですが、その悔しさをバネに、ロックシンガーへの道を邁進します。

「矢沢永吉は昔危うく親戚一家皆殺しにするところだった?」からの続き

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最初のバンド「ザ・ベース」を結成

親戚から、思いも寄らない理不尽な物言いをされ、危うく親戚一家を皆殺しにしてしまいそうな気持ちをグッとこらえ、啖呵(たんか)を切った矢沢さんは、その足で、横浜に戻ると、その後すぐに、最初のバンド「ザ・ベース」(「基礎」という意味)を結成。

そして、

うまくなるには人前でやらなきゃダメだ

との考えから、川崎市にある「歌声喫茶」で、初めて人前で歌うと、

その後、横須賀のクラブ「オスカー」に売り込んでオーディションを受け、見事合格。1ヶ月の契約で初ギャラ1万円を得ます。

また、その後も、矢沢さんたちは練習に練習を重ね、今度は、横浜・本牧のライブハウス「ゴールデンカップ」と1ヶ月の契約(ギャラ16万円)を結び、2ヶ月間出演するなど、着実にステップを踏んでいったのでした。

藤田潔(サイドギター)が加入

ちなみに、矢沢さんは、この後、「ザ・ベース」から、「イーセット」「ヤマト」「キャロル」とバンドを変更していくのですが、その経緯の中で、大きな出会いがありました。

それは、藤田潔さんと木原敏雄さんとの出会いなのですが、藤田さんによると、藤田さんと木原さんは、川崎の高校の同級生で、高校卒業後は神奈川大学に入学。大学3年生になった時、バイト先の音楽関係者の知り合いづてに、矢沢さんのバンド「ザ・ベース」に誘われたそうで、

ある日のこと、藤田さんが、矢沢さんとの待ち合わせ場所だった「喫茶タクト」で待っていると、しばらくして、矢沢さんが来て、歌い始めたそうです。

そこで、藤田さんは知り合いのギターを借りて演奏を始め、矢沢さんのヴォーカルに合わせて何気なくハモると、帰り際、矢沢さんから、

新しいバンドを作るんだけど一緒にやらないか?

と、誘われたのだそうです。

木原敏雄(リードギター)が加入

さらに、木原さんに関しては、藤田さんが「ザ・ベース」に加入し、「ゴールデンカップ」で演奏するようになった頃、藤田さんが木原さんを矢沢さんに紹介したそうで、

木原さんによると、長髪をタオルで縛り、ランニングにジーパン姿だった矢沢さんは、「ザ・ベース」のほかのメンバー抜きで、楽屋で3人で話をすると、

俺こんな曲書いてんだ

と、曲を見せてくれたほか、共にビートルズの曲をハモったりして意気投合。

木原さんもメンバーに加入することになったのだそうです。

新バンド「イーセット」⇒「ヤマト」結成

その後、矢沢さんは、「ザ・ベース」を解散し、木原さん(リードギター)、藤田さん(サイドギター)と共に、新バンド「イーセット」結成すると、

ほどなくして、他のバンドからドラマーで、当時15歳だった大森正治さんを引き抜き、ドラマー交代をきっかけに、「イーセット」から「ヤマト」へバンド名を改名されたのでした。

(この頃、矢沢さんは、「才能の無い奴は去れ!」という考えで、無能なメンバーは切り離し、使える者をピックアップすることでバンドの能力向上を図っていったそうです。)

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非凡な才能

ちなみに、当時の矢沢さんの音楽性と実力について、木原さんと藤田さんがコメントされていますので、ご紹介しましょう。

まず、木原さんによると、

彼は高いキーでも声がぶっとくてシャウトするインパクトがすごかった。バンドは下手だったけれど、あいつの歌で持って行ける気がしたんだ。パレスのときワンステージだけやったら、声が通るからあっち向いてる客を振り返らせた。

次はビートルズの新曲「ホープ」聞いてください、なんて、オリジナルの曲なのにうそを言って歌ったりした。そのあと、だまされて横浜駅東口のスカイビルにあったレコード店「帝都無線」に買いに行ったやつが何人もいる。良い曲をいっぱい持ってたからそんな冗談ができたんだろうね。

また、藤田さんも、

矢沢の曲作りで憶えてるのは、ちょうど伊勢佐木町のあたりを歩いてたとき、メロディが浮かんだらしく、商店街にあった楽器店に入り、ギターの一弦だけを押さえた指の動きでメロディを憶えて帰っていった。

あの時「すごいな!」って実力を感じた。だから後に成功を知った時、「矢沢だから当然こうなるよな」って、驚きがなかった。

と、明かされており、

矢沢さんの才能の片鱗は、当時から垣間見えていたようです。

「矢沢永吉のキャロル結成前後は?ジョニー大倉との出会いは?」に続く

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