幼少期は、芸事好きのお父さんに強制的に稽古をさせられていた、五月みどり(さつき みどり)さんですが、結果的には、高校1年生の時に出場した、ニッポン放送の「ものまねのど自慢」に優勝したことをきっかけに、芸能界入りされます。

「五月みどりの生い立ちは?妹は小松みどり!弟はプロボウラー!」からの続き

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「ものまねのど自慢」で優勝し芸能界入りするも・・・

幼少期は、芸事好きのお父さんに厳しい稽古をつけられていた五月さんですが、それが活きたのか、1956年、高校1年生(16歳)の時には、ニッポン放送の「ものまねのど自慢」に出場されると、見事、優勝。

審査員だった作曲家の宮城秀雄さんから、

歌手を目指さないか

と、スカウトされて、宮城さんに弟子入りされます。

ただ、すぐデビューとはいかず、レコード会社の廊下の椅子に座り、声をかけられるのを待つ日々だったそうです。

ベトナムで人気者

そんなある日のこと、ほかの歌手やダンサーとともに、ベトナムに40日間興行に出向く仕事が舞い込むのですが、旅客機ではなく、なんと、貨物機でベトナムまで行くことに。

(しかも、振袖姿に、家でお母さんに結ってもらった髪にかんざしをいっぱいつけたままの姿で(かんざしを外すと自分でもどせなくなってしまうため)、30時間以上もかけて。)

ただ、その甲斐あって、ベトナムに到着すると、一人だけ華やかな衣装をした五月さんに一斉に視線が注がれたそうで、

その後、まったく分からないベトナム語の歌詞を急に渡されて歌うこともあったそうですが、一生懸命に頑張る五月さんの姿がベトナムの人たちに好印象を与えたのか、艶やかな振袖姿と相まって、

五月さんは、

電子(テレビ)の皇后

と、呼ばれ、人気を博したのでした。

「お座敷ロック」でデビュー

その後、ベトナムから帰国した五月さんは、1958年、19歳の時、ファーストシングル「お座敷ロック」で歌手デビューを果たすと、


「お座敷ロック」

以降、

1959年「あなたの名は赤とんぼ」
     「僕が女房を貰ったら」(フランキー堺とデュエット)
     「母恋馬子唄」(こまどり姉妹の「三味線姉妹」のB面)
1960年「お別れかいな旅人さん」(花村菊江の「潮来花嫁さん」B面)

と、シングルをリリースするのですが・・・ぱっとせず。

「おひまなら来てね」が大ヒット

ただ、1961年、神戸一郎さんの「瀬戸の恋唄」のB面として、「おひまなら来てね」がリリースされると、

中京地区から徐々に話題を呼び、これまでの歌手になかった愛らしくチャーミングな美貌と、美しい「ちりめんビブラート」(緊張して震えている声のようなビブラート)でたちまちブレイクしたのでした。


「瀬戸の恋唄」のB面としてリリースされた「おひまなら来てね」

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「NHK紅白歌合戦」に3年連続出場

こうして、「おひまなら来てね」で一躍人気を博した五月さんは、翌年の1962年には、「第13回 NHK紅白歌合戦」に初出場を果たされると、その後も、「第14回」(1963)、「第15回」(1964)と3年連続で「紅白」に出場。

「第14回」で、「一週間に十日来い」を歌唱された際には、瞬間最高視聴率85.3%を叩き出すなど、凄まじい人気を誇ったのでした。

ちなみに、五月さんは、

当時はファンが家まで来たんですよ。客商売だからか両親が気さくで、彼らを家の中に入れちゃうんです。ある朝、寝巻き姿で起きてきたら、知らない男の子たちが、食卓でおにぎりを頬張っていて驚きました(笑)

と、今では考えられない神対応を当時されていたことを、後に明かされています。

「五月みどりのデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」に続く

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