1945年6月29日未明、寝静まっていた岡山市内に、突如、米軍「B29」の爆撃が始まると、お父さんに言われ、お母さん、お姉さんと共に、岡山後楽園を目指した、八名信夫(やな のぶお)さんですが、その後、信じられないような悲惨な体験をします。
「八名信夫の生い立ちは?幼少期は悲惨な戦争体験!」からの続き
岡山後楽園を目指すも母親と姉とも離れ離れに
お父さんが、職場である駅に蒸気機関車を見に向かうため、お母さん、お姉さんと共に、岡山後楽園を目指すよう言われ、お父さんと離れ離れになった八名さんですが、
あたり一面、真っ黒な煙で覆われていたため、よく見えず、どこへ向かっているのかも分からず、さらには、焼夷弾(しょういだん)の油が地面に流れて、それに火がつくため、下からグワァッと炎が上がったそうで、そんな猛火の中を、「アチい、アチい」と言いながら、あっちこっちに逃げ回ったそうです。
そして、そのうち、逃げ惑う人の波に巻き込まれてしまうと、いつの間にか、握っていたお母さんの手が離れてしまい、お母さんたちとも離ればなれになってしまったのでした。
焼死体と共に折り重なっているところを助け出される
その後、八名さんは、明け方、雨がしとしと降る中、田んぼの中に一人で倒れているところを、地元の消防団員に鳶口(とびぐち・先端に金具のカギがついた棒状の道具)で引っ掛けて引っ張られたことで、激痛で目が覚めたそうで、
(後に、同級生に聞いたところ、消防団員は焼死体を集めていたそうで、岡山市の中心部を流れる用水路「西川」では、川の水が流れなくなるくらい、死体が重なっていたそうです)
消防団員が、
おーい、こいつ生きとるぞ
と、八名さんが焼死体ではないことに気づき、
近くの小学校で炊き出しをやっているから、握り飯をもらうようにと、教えてくれたのだそうです。
炊き出しの長蛇の列で母親と姉に再会
こうして、八名さんは、小学校へ向かい、校庭にたどり着くと、被災した老若男女が何百人も何列もズラーッと列を作り、炊き出しを待っていたそうで、八名さんも並んで待っていると、別の列に、お母さんとお姉さんが並んでいるのを見つけたそうです。
ただ、2人の姿を見てホッとしたものの、いったん列を離れれば、また最後尾から並ばなくてはいけないため、列を離れて駆け寄ることはできなかったのだそうです。
(お母さんたちと再会し、最後尾に並び直しているうちに握り飯がなくなったら、そちらの方が困ると、たった一つの握り飯の方を優先したと、八名さんは後に語っておられました。)
父親とも再会
その後、八名さんは、無事、握り飯をもらい、お母さんとお姉さんとも再会を果たされたそうで、3人は自宅に戻ろうとしたそうですが、
中心街は焼夷弾の油で地面がまだくすぶっていて、とても熱く、地下足袋(じかたび)の裏が焼けるため、近づくことができなかったそうです。
また、お父さんとも連絡が取れず、途方にくれてしまったそうですが、南西へ4キロほど離れた芳田村米倉(現・岡山市南区)にある親戚の家に身を寄せると、ほどなくして、お父さんとも連絡がついたそうで、
しばらくお父さんの部下の家にお世話になり、その後、八名さん一家は平島村(現・岡山市東区)に疎開し、家を借りたのだそうです。
終戦後、父親が映画と芝居の興行を始める
そして、1945年8月15日、八名さんは、疎開先の平島村で、ラジオから流れる天皇陛下の玉音放送を聞き、最初は何を言っているのか分からなかったそうですが、
お父さんが、
日本は負けた
と、言うのを聞き、
あぁ戦争が終わったんだ
と、その時、初めて思ったのだそうです。
その後、お父さんは国鉄を辞めると、もともと芝居が好きだったこともあり、焼け野原になった岡山の人たちに何か楽しみをと、岡山の中心街に劇場を作って、映画と芝居の興行を始めたそうで、
贔屓(ひいき)にしていた女剣劇の不二洋子さんや、人気芸人のエンタツ・アチャコさんなどを呼んだりするほか、映画では、ジョン・ウエインの西部劇などの洋画を1週間ごとに2本立てで上映されると、
その頃は、娯楽といえば、映画を観ることやお芝居を楽しむことしかなかったため、劇場は常に満員で、切符を買うのに、観客が劇場をぐるぐると取り巻くぐらい並んでいたそうで、そのお陰で八名家はどんどん裕福になっていったのだそうです。
(ただ、お父さんは、その稼いだお金で、道路を補修したり、泥沼みたいな道をアスファルトになるなど、町の復興のために使ったそうです。)
「八名信夫は高校球児で活躍も明治大学野球部ではリンチから脱走していた!」に続く
八名さんのお父さんが経営していた劇場。いつも長蛇の列だったそうです。