田村三兄弟の中でも、父親・阪東妻三郎さんの品格を最も受け継いだ名優と言われた、田村高廣(たむら たかひろ)さん。田村さんにとって、お父さんはどのような方だったのでしょうか。
「田村高廣のデビューからの出演ドラマ映画を画像で!」からの続き
プロレタリア思想に傾倒
田村さんによると、父親・阪東妻三郎さんは、華やかなスターとしての生活を送りながらも、小林多喜二の「蟹工船」等に代表されるプロレタリア文学に傾倒していたそうで、
貧しい頃の自分や同じような境遇の人のことが心の底にあり、
いつか、彼らを主人公にした映画を撮影したい
と思われていたそうです。
そして、ついに、1925年、大会社にいる限りはそういった映画を撮ることはできないと、独立プロダクション「阪東妻三郎プロダクション」を京都の太秦に設立。自ら陣頭に立って映画制作を開始されたのですが・・・
このプロダクションは、元所属のマキノプロダクションからさんざん妨害に遭った挙げ句、最終的には、資本力のある大会社によって、騙されるようにつぶされてしまいます。
ただ、後年、時代劇を離れた妻三郎さんは、1948年には、貧しい人々に寄り添う気持ちを根底に、福岡県小倉(現在の北九州市)を舞台に、荒くれ者の人力車夫・富島松五郎(通称無法松)と亡き友人の遺族との交流を描いた、岩下俊作さんの同名小説を原作とする映画「無法松の一生」に出演されると、
この映画は傑作として高く評価され、妻三郎さんの代表作となったのでした。
「無法松の一生」より。
「無法松の一生」で父バンツマと同じ富島松五郎役
そんな妻三郎さんは、51歳という若さで他界。
死因は「脳膜出血」だったそうで、
田村さんは、
「無法松の一生」が遠因ではないか
それは凝り性の人でしたから、車の曳き方はどうであろうと、嵐山の近くの土手で走り方を研究しているうちに、風邪をひいて中耳炎になって、後遺症として脳種が残ったのではないか。と思います。
と、明かされているのですが、
田村さんも、1976年、お父さんが命を燃やすほどの思いで演じられた松五郎役を、舞台「無法松の一生」で演じ、お父さんの意志を継承。
この時、田村さんは、周囲から「二代目阪東妻三郎襲名」が持ち上がったそうですが、それについては固辞。
田村さんは、お父さん亡き後、お父さんの借金を返すためと弟たちを養うために、もともと興味のなかった役者の道に進まれているのですが、
やはり、家族に対する思いだけではなく、お父さんを尊敬する気持ちがあったからこそだったのでしょうね。
映画制作に命を燃やしていた
ところで、田村さんが幼い頃、庭の隅で何かを燃やしているお父さん(阪東妻三郎さん)の姿を見かけ、お母さんに、
あれは何をしているの
と、尋ねたことがあったそうですが、
お母さんは、
台本を燃やしている、いつもそうしている
と答えたそうです。
というのも、お父さん(阪東妻三郎さん)は、撮り終わった映画の台本はすべて燃やしていたそうで、田村さんが役者になった時、お父さんの台本に何か書き込みがあったら参考に見たいと思い、探したことがあったそうですが、本当に1冊も残っていなかったのだそうです。
映画を撮り終えるまでは全力を注ぎ、終わったら本当に終わってしまう。そんな風に、一つの映画に対して完全燃焼されていたストイックな妻三郎さんですが、
それでも、田村さんが学生時代、映写機で家族を映した映像の中では、海岸や旅行先で、子どもたちよりも楽しそうに遊びに興じている妻三郎さんのお茶目な姿があり、家族でいる時は、唯一、ホッとできる瞬間だったのかもしれません。
「田村高廣の死因は脳梗塞!弟・田村正和のコメントは?」に続く
田村さんはお父さんの素顔を綴った著作も出版されています。
剣戟王阪妻の素顔―家ではこんなお父さんでした