因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ、まだ目新しかった映画(活動写真)の世界に新天地を見い出すも、なかなかチャンスが巡ってこなかった、阪東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)さんですが、ついに、糸口を見つけます。
「阪東妻三郎の生い立ちは?当初は歌舞伎に弟子入りしていた!」からの続き
「阪東妻三郎大一座」旗揚げで人気博すも・・・
こうして、1920年、「松竹キネマ蒲田撮影所」に入社するも、ほどなくして退社し、「国活」撮影所に逆戻りされた阪東さんですが、脇役ばかりが続いたことで嫌気が差したことから、
「国活」撮影所の同僚だった片岡松花さんと中村吉松さんを慕って「国活」撮影所を飛び出し、「阪東妻三郎」を名乗って、「東京大歌舞伎 阪東妻三郎一座」を旗揚げすると、「阪東妻三郎大一座」は大盛況に。
当初、東京近郊を巡業されていただけだったのが、やがて、群馬県周辺にまで興業を広げるほどの人気を博し、特に背が高かった阪東さんは、舞台でもよく映え、その人気はうなぎのぼりとなったのでした。
ちなみに、女優の環歌子さんによると、「国活」撮影所での脇役時代から、
大勢のエキストラの中でも大変目立ってすぐわかりました。痩せて非常に背が高く、首一つ出ている感じで色が白いのを通り越して青い様な感じでした。
と、当時から阪東さんは、目立っていたようです。
裏切りに遭い一文無し
しかし、そんな阪東さんの人気を妬(ねた)む者も多く、騙(だま)されるなどの裏切りに遭い、1922年の春(阪東さん22歳)には、一座は解散。
阪東さんは、単衣物一枚の上に外套(がいとう)を羽織っただけという惨めな姿で、実家に戻られたのでした。
「マキノ映画製作所」に入社~「怪傑鷹」の見目麗しい敵役で人気
ただ、翌年1923年2月には、牧野省三監督が京都に「マキノ映画製作所」を設立するにあたり、東京に俳優募集に来ていた「マキノ映画製作所」の重役・宮川斉さんにスカウトされたそうで、
これで成功しなければ二度と東京の土は踏まぬ
と、一大決心をして、京都に行き、「マキノ映画製作所」に入社。
すると、当初は、大部屋俳優の斬られ役(悪役・敵役)からのスタートだったものの、長身にはっきりした顔立ちだったことから、一介の斬られ役にもかかわらず、どんなに変装しても目立ち、
1924年に出演された、お正月映画「火の車お萬」がヒットすると、阪東さんも一躍脚光を浴びたそうで、
脇役をやらせるには目立って仕方がないから役をつけてしまえ
と、同年、映画「怪傑鷹」では、主人公・快傑鷹(若僧宗循)演じる高木新平さんの敵役・黒木原源太役に抜擢。
すると、敵役が、白面の見目麗(みめうるわ)しい剣士ということに、観客や評論家も驚き、阪東さんは、たちまち人気を博したのでした。
「燃ゆる渦巻」ではスーパースター尾上松之助を圧倒
そんな阪東さんは、続いて、全4篇からなる映画「燃ゆる渦巻」に駒井相模守役で出演されると、当初はそれほどではなかったものの、途中から阪東さんの人気が急上昇。
そのため、第4篇では、主人公・林清之助があっけなく死に、阪東さん演じる駒井相模守が主人公に取って代わるほどの人気ぶりだったそうで、
阪東さんは、この作品で、自身の出世の糸口を掴んだだけでなく、その人気により、「マキノ映画製作所」の躍進にも大きく貢献されたのでした。
ちなみに、この映画は、同時期、あらゆるヒーローを演じ、日本映画最初のスーパースターと称される尾上松之助さんバージョンも公開されていたようですが、阪東さんバージョンの方が圧倒的な人気を誇ったのだそうです。
「阪東妻三郎は雄呂血で乱闘劇のバンツマとして大ブレイク!」に続く