「雄呂血(おろち)」では、ダイナミックでありながら、舞踊的な華麗さも取り入れた斬新な殺陣で人々を熱狂させ、「剣戟ブーム」を巻き起こした、阪東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)さんですが、次第に巨大権力に取り込まれていきます。
「阪東妻三郎は雄呂血で乱闘劇のバンツマとして大ブレイク!」からの続き
「松竹」と配給提携を結ぶも・・・
1925年、23歳にして、「阪東妻三郎プロダクション」第1作、「雄呂血」が大ヒットを記録し、全国に剣戟(けんげき)ブームを巻き起こした阪東さんは、
同年12月には、阪東さんの人気に注目した「松竹」と配給提携を結ぶと、1926年4月には、「阪東妻三郎プロダクション」の「太秦撮影所」を完成させ、同年9月には、アメリカの「ユニバーサル社」と配給提携するなど、仕事は順調そのもの。
そして、この年には、
「尊王」(1926)
「無明地獄」(1926)
「魔保露詩」(1926)
「尊王」より。
などの傑作を次々と発表すると、不正や不当な権力と闘う不屈の精神を持った武士、浪人、やくざなどの人間的な明暗を見事に演じ、老若男女問わず、幅広いファンの支持を得たのですが・・・
「松竹」と絶縁し「太秦撮影所」を解散
興行主義の「松竹」と芸術志向の阪東さんの意見が合うはずもなく、次第に双方の対立が表面化。
1928年以降は、「松竹」が強大な資本力をバックに、「阪東妻三郎プロダクション」への干渉を強め、阪東さんの発言力は弱まっていきます。
そのため、当初は「松竹時代劇の救世主」という位置づけだった阪東さんも、「松竹時代劇ブロック構成の一環」と、ぞんざいに扱われるようになり、ついには、林長二郎さんが大々的に売り出されるなど、阪東さんの人気も脅かされるように。
この事態を受け、阪東さんは、1930年6月11日、「朝日新聞紙」紙上で、「松竹」からの脱退と絶縁声明を発表。京都の「太秦撮影所」を解散させたのでした。
「阪東妻三郎プロダクション」解散
そんな阪東さんは、翌年の1931年2月には、(閉鎖した)京都・太秦にあった撮影所を千葉県谷津海岸に移設し、作家の吉川英治さんや長谷川伸さんら大衆文芸を題材にした、本格的なドラマ作りを精力的に開始すると、
森静子さん、環光子さん、鈴木澄子さん、桜木梅子さんなどの女優を相手役に迎えたドラマは次々とヒット。
しかし、日本映画が次第に、「無声映画」から「トーキー映画」(映像と音声が同期した映画)に移行していくと、映画情勢は一変。
阪東さんのヒーロー像は、人々から飽きられ、人気は低迷し、1936年には、11年に渡って存続した「阪東妻三郎プロダクション」の解散を余儀なくされたのでした。
トーキー映画では細く甲高い声で苦労
ところで、阪東さんは、最後まで、映像と音声が同期される「トーキー映画」に抵抗したと言われているのですが、
実際にはそうではなく、映像と音が同期されてしまうと、それまで絶大な人気を博した、ニヒルで豪快な剣戟(けんげき)スターのイメージが、実は細く甲高かった阪東さんの声で、観客のイメージを壊してしまうのではないかと思われ、日夜、夜行性の動物の遠吠えのような唸り声をあげて発声練習をし、ついには、迫力のある発声を体得されています。
ちなみに、阪東さんが初めて出演されたトーキー映画「新納鶴千代」(1935年)の伊藤大輔監督は、
芝居はうまいが、しゃべったら駄目なんだ。トーキーに慣れるまでは可哀相なほど苦労したのです。
誰かが彼の台詞廻しは歌舞伎調だと書いておりましたな。(中略)あれは歌舞伎の声色ではない。カツベンなのです。無声映画の弁士から学んだのだ。
と、当初、阪東さんの大袈裟で芝居がかったセリフ廻しに閉口されたことを明かされています。
(※「カツベン」とは、無声映画を上映中に傍らでその内容を解説する専任の解説者のことで、「活動写真弁士(かつどうしゃしんべんし)と呼ばれていたことから、略して「カツベン」と呼ばれたそうです)
「日活」に移籍し「剣戟王・阪妻」として復活
さて、そんな阪東さんは、1937年5月には、千葉県谷津海岸の撮影所を整理し、裸一貫で「日活」に移籍されるのですが、
「日活」移籍第一作目となる「恋山彦 前後篇」では、素晴らしい立ち回りととともに、喉の奥から絞り出すような独特のセリフ回しが好評を博し、「剣戟王・阪妻」として、見事復活。
「恋山彦 前後篇」より。
以降、阪東さんは、
「血煙高田馬場」(1937年)
「忠臣蔵 地の巻 」(1938年)
「忠臣蔵 天の巻」 (1938年)
「闇の影法師」(1938年)
「大岡政談・魔像」(1938年)
「牢獄の花嫁 前篇」(1939年)
「血煙高田馬場」より。
「牢獄の花嫁 解決篇」(1939年)
「大楠公」(1940年)
「風雲将棋谷解決編」(1940年)
「江戸最後の日」(1941年)
「柳生月影抄」(1941年)
「将軍と参謀と兵」(1942年)※現代劇初主演
「江戸最後の日」より。
と、これまでとは打って変わり、商業主義的な大作に次々と出演されると、
独立時代に培った、人間の明暗を表現する演技力とあいまって、その演技は高く評価され、名優としての地位を確立されたのでした。
「阪東妻三郎の無法松の一生の出演は文字通り命がけだった!」に続く
「柳生月影抄」より。