幼い頃にお父さんが亡くなったことから、遠足にも運動会にも行けないほどの極貧生活を余儀なくされ、そのうえ、何度も転校していたことから、ひどいイジメにも遭っていた、仲代達矢(なかだい たつや)さんですが、そんな折、今度は戦争が始まります。
「仲代達矢の少年時代は極貧でイジメられっ子だった!」からの続き
疎開先では寂しさから毎晩おねしょ
極貧生活とイジメに耐える毎日を送っていた仲代さんですが、1941年に太平洋戦争が始まると、1943年、仲代さんは、学童集団疎開で、調布市仙川の寺に疎開。
しかし、ほかの生徒の両親が面会に訪れる中、仲代さんのお母さんは一度も面会に来てくれなかったそうで、
慣れない環境や、お母さんが会いに来てくれない寂しさから、仲代さんは、毎晩おねしょをするようになったそうで、こっそり裏の墓地の墓石に布団をかけて乾かしていたそうです。
疎開中に母親が妾になって弟を出産
そして、1945年4月、ようやく、小学校を卒業し、疎開先から青山の実家に戻ってきた仲代さんですが、なんと、家には、知らない赤ん坊が。
それで、仲代さんが、
あれ、誰?
と、お母さんに聞いたところ、
お母さんは、
お前の弟だよ
と、答えたそうで、仲代さんは唖然としたそうです。
(お母さんは、仲代さんが疎開中、住み込み先の弁護士の妾となり、仲代さんの弟を出産。その後も、その弁護士との間に、2人の子どもを出産されています。)
空襲で悲惨な体験
その後、その弁護士は、仲代さん母子のために、渋谷に家を借りてくれたそうで、仲代さん一家は転居するのですが・・・
仲代さんが小学校を卒業した直後の1945年5月25日、仲代さんが、渋谷から友達の家に行こうと青山へ行くと、突如、爆撃が始まります。(「山の手空襲」)
B29が大挙押し寄せ、焼夷弾(しょういだん)を雨あられのごとく落としたそうで、爆発音、人々の悲鳴、土煙と、まさに地獄絵図。
そんな中、仲代さんは、どこかに隠れようとしていると、ふと、5~6歳くらいの小さな女の子がはぐれて、一人で走ってくるのが見えたため、とっさにその女の子の手を引いて逃げたそうですが、
危ないからと、手をぐっと引っ張った瞬間、その手が急に軽くなったような気がして、ふと見ると、その手には胴体がついていなかったそうです。
後に、仲代さんは、
「ああ!」と思いましたけど、焼夷弾がバラバラと落ちて来るし、硝煙のせいで何もできない。
実に残念なことですけど(手首を)投げ捨てたんです。それで逃げおおせた。いまだに後悔しています。手だけでも、どこかで墓に埋めるなりなんなりしなきゃいけなかった。
あの感触とともに、いまだに非常に悔やんでいて、夜中に夢にまで見ることがあります。こうして今も生かされているのは、あの地獄の時間を共有した子が生かしてくれているのではないかと思っています。
と、悲惨な体験を明かされています。
親米に早変わりした大人たちに不信感を抱く
こうして、命からがら逃げ通した仲代さんは、新宿に着いたそうですが、そこでは、墨のように真っ黒になった死体が、苦しんだ格好のまま、野ざらしになっているのを目の当たりにしたそうです。
そして、その後、日本は無条件降伏して終戦となるのですが、
昭和20年8月15日の1日を境にして、大人どもが急に親米派になって。1日で親米派になったんですね。昨日まで何十年も言ってたのに。
「国のために死ね」って言ってた大人どもが平気なゆるキャラになって生きている。この大人に対する不信感が、未だにそれはありますよ。
と、仲代さんは、大人たちに不信感を抱くようになったのでした。