「人間の條件」「椿三十郎」「乱」など、数多くの名作に出演されているほか、40年以上もの間、「無名塾」で俳優志望の若者を指導されている、仲代達矢(なかだい たつや)さんですが、今回は、そんな仲代さんの困窮を極めたという少年時代をご紹介します。

「仲代達矢の祖父は中国で殺害されていた!」からの続き

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幼少期に父親が他界

ハイヤー会社の経営に失敗した仲代さんのお父さんは、その後、千葉で京成電鉄のバスの運転手をされていたようで、やがて、転勤となって、千葉県津田沼に転居されたそうですが、

長い間「結核」を患った末、1941年、仲代さんが8歳の時、42歳の若さで他界されます。

ただ、臨終の際、仲代さんほか3人の兄弟たちは、お父さんの布団の周りに座らされ、一人ずつ、お父さんの手を取って、最期の別れをしたそうですが、

お父さんは、仲代さんの手を握ると、じっと顔を見つめて、突然、お母さんに、

こいつはちょっと悪くなる。不良にならないように気をつけろ

と、言われたそうで、

幼い頃から恥ずかしがり屋で内気な少年だったという仲代さんは、なぜお父さんがそんなことを言ったのか分からず、

だったら、絶対に悪くなるもんか

と、心に誓ったのだそうです。

父親が他界後は極貧生活

さて、お父さんの死後は、お母さんが女手一つで仲代さん達4人の子どもを育てなければならなくなり、明日食べるものはイモの葉っぱしかない、というほど、その生活は困窮を極めたそうです。

そのため、仲代さんは、お弁当が用意できず、運動会にも出場したことがなかったそうで、他の子らが家族総出で応援してもらい、仲良くお弁当を広げていた時、仲代さんは、自宅で、喘息の持病を持つお母さんの背中をさすっていたのだそうです。

また、お弁当だけでなく、参加料金も支払うことができなかったため、遠足にも参加したことがなかったそうです。

(そんな貧しい暮らしの中、仲代さんは、10歳になる前から働いて家計を支えていたそうです)

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母親がイジメっ子の家や教師に殴り込み?

そんな仲代さんは、内気で引っ込み思案だったうえ、小学校を何度も転校していたことからイジメに遭い、泣きながら家に帰ることもしょっちゅうだったそうですが、

ある時、お母さんは、病弱だったにもかかわらず、泣いている仲代さんから事情を聞くや、木刀を持って仲代さんの手を引き、イジメた子どもの家に殴り込みをかけたそうで(大柄で声も大きかったため、すごい迫力だったとか)、

そんなことがあってから、仲代さんはイジメられても泣かないようし、お母さんに気づかれないようにしたのだそうです。

また、その後、お母さんが、青山の弁護士事務所で住み込みで働くことになったため、仲代さんは、青山にある「青南小学校」に転校するのですが、

その小学校は、軍人や実業家など富裕層の多い小学校だったため(山本五十六元帥や阿南陸相の息子もいたそうです)、極貧でお弁当のおかずも用意できない仲代さんは、

教師から、

ここはお前らのような貧乏人が来る学校ではない

と、言われたそうですが、

その時もお母さんは、イジメっ子の家に乗り込んだ時と同様、学校にも乗り込み、その教師に向かって、それでもお前は教師なのかと強硬に抗議したそうで、最終的には教師が謝罪する、という出来事もあったのだそうです。

「仲代達矢は子どもの頃に空襲で急死に一生を得ていた!」に続く

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