高校在学中に、「日活」のプロデューサーに誘われ、エキストラとして活動すると、高校卒業は、「日活第3期ニューフェイス」に合格し、晴れて「日活」に入社した、小林旭(こばやし あきら)さんですが、新人だった小林さんを待っていたのは、凄まじいイジメでした。
厳しい上下関係
1956年、18歳の時、見事、「日活第3期ニューフェイス」に合格し、「日活」に入社した小林さんでしたが、「日活」での上下関係は、とても厳しかったそうで、
小林さんが新人の頃、部屋から廊下に出て、50メートル先に先輩(スター俳優)の姿が見えると、まず、その先輩がどこへ行くか見極めるまで、壁際にじっと立って待たなければいけず、
先輩がこちらの方に歩いて来ると、通り過ぎる時、「おはようございます」と挨拶し、先輩が通り過ぎたのを確認して、初めて動き出し、目的地に行くことができたそうです。
ごろつきの吹き溜まりだった「日活」の大部屋
また、小林さんによると、「ニューフェイス」と言っても、華々しい幹部候補生ではなく、単なる4月1日付の新入社員という扱いで、
小林さんは、入社早々、「日活」の撮影所(当時、調布にできたばかりだったそうです)にあった大部屋に放り込まれたそうですが、
(「日活」には、入社して最初の3年は、新人契約で大部屋俳優になる決まりがあったそうで、通行人などの端役をしながら、自分自身で学ぶという教育方針だったそうです)
そこには、100~200人の役者が、エキストラをしながら、明日のスターを夢見てうごめいていたそうで、1930年代に入って来たと、大いばりして、あぐらをかいている者や、軍隊帰りなど、新人をいびることで自分の人生の恨みを吐き出すような連中が大勢おり、
脇役とはいえ、早々に役をもらい、物怖じせず堂々として目立っていた小林さんは、かっこうの標的になったそうです。
(小林さんは、エキストラとして出演していた頃から、手抜きをして、暇さえあれば、役付きの役者の演技をじっと見て、演技の研究をしていたそうです)
大部屋では凄まじいイジメに遭っていた
例えば、ある日、小林さんは、非常階段の踊り場で、ギャングに殴られ後ろ向きに落ちるシーンを撮影されていたのですが、本番になると、ギャング役の先輩が、「あ、ごめん」と言つつ、本気で小林さんを殴り、さらには、わざと何度もNGを出し、何度もやり直しをするはめになったそうです。
それでも、小林さんが、奥歯を噛みしめ、
どうぞ思い切ってやってください
と、言うと、殴りかかってきたその先輩は、中指を骨折してしまったとか。
椅子をわざと蹴飛ばし転ばされたことも
また、小林さんが時代劇のエキストラをやっていた時のこと、目張り(アイライン)をしなければならなかったのですが、新人だった小林さんにはどうしたらいいか分からず、先輩に聞くと、
んなものぁ、そこらへんの色鉛筆で書きゃあいいんだ
と、怒られたことから、先輩たちが作っていくのを、鏡越しにじっと見て勉強し(まともに観察していると、「何見てんだ!」と、怒られたため)、「なるほどああやるのか」と、小林さんが鉛筆で目張りを入れようと鏡に顔を近づけると、
そのお尻が椅子から浮いた瞬間、先輩はわざと小林さんの椅子につまづいてきたそうで、小林さんは硬いコンクリートの床に転び、そのうえ、先輩から鼻の頭を鉛筆でつつかれたそうで、その痛さといったら、今でも忘れられないほどだったそうです。
(大部屋には、長さ20メートル弱の一枚鏡が4、5枚と、ビニール張りの丸イスがあったそうですが、イスの足は鉄パイプを半円状に曲げて丸くなっていたことから、座る場所によっては、つるっと転ぶこともあったそうです)
我を忘れて日本刀を持ち出し待ち伏せしたことも
しかし、ある日のこと、小林さんは、そんな仕打ちにどうしても我慢できなくなり、お父さんの日本刀を持ち出し、撮影所の表玄関で先輩を待ち伏せしたそうですが、
一日待っても、その先輩は出て来ず、そのうち守衛が来て、
小林さん、でしょ? もう撮影所の中だれもいないけど、なにか用事?
と、言われたそうで、
その時、初めて、小林さんは、裏門があることを思い出したそうです。(頭に血が上っていて考えられなかったそうです)
ちなみに、小林さんは、その時のことを、
当時の調布は野良道でね。腹すかした男が刀を懐にじっと待ってんだから、異様だったろうねえ。
と、振り返られています。
凄まじい反骨精神でスターに
そんな小林さんは、新人の頃、
前からカミソリが歩いて来る
と、言われるほど、トゲトゲされていたそうですが、
小林さんは、先輩というだけで偉そうな人間に我慢ならず、
何だ、この野郎、負けてたまるか
という、反骨精神からくるものだったと明かしつつ、
今はそれで正しかったと思う。そういう連中に凹まされていたならば、小林旭という人間は(世)に出て行けなかった思う。
と、語っておられます。
ただ、根底には、
先輩諸氏を敬い、その人のやってきた功績を認めてあげる
との思いを常に持つようにし、むやみやたらに仕返しをしていたわけではなかったとのこと。
また、小林さんは、
俳優は、誰しもトップになりたいもの。だが、己の器を知らなければならない。自分が二枚目じゃないと思ったら、脇の渋い役とか研究していけば生きる場所はあるわけ。
自分の個性、本質を早く会得して、それを表現できる力を努力して研究すれば勝ちなんだ。大部屋で学んだ教訓といって、別にない。ただ、何をやるんでも、一生懸命無我夢中。
我を無くして夢の中のごとく、一生に命を懸ける。正直者は馬鹿を見るというけれど、馬鹿をみたってたかだか人生。どうせ人生一回しかないんだから、いいんだよ。
とも、語っておられました。
「小林旭の若い頃は「南国土佐を後にして」が大ヒット!」に続く