1975年、ロックバンド「クールス(COOLS)」として、ファーストシングル「紫のハイウェイ」でデビューすると、翌年の1976年には、映画「暴力教室」で俳優デビューも果たした、舘ひろし(たち ひろし)さん。1979年には、石原裕次郎さん主演のテレビドラマ「西部警察」に出演したことがきっかけで、渡哲也さんと出会います。
「舘ひろしは昔矢沢永吉のキャロルの親衛隊だった!」からの続き
「クールス」脱退理由は?
1976年、「暴力教室」で映画デビューし、同年、「男組 少年刑務所」で映画初主演を務めると、以降、立て続けに映画に出演し、人気が出始めた舘さんは、1977年、4月には、「クールス」を脱退。本格的に俳優の道を歩き始めるのですが、
舘さんが「クールス」を脱退した理由は、やはり、他のメンバーとの軋轢だったようで、
「クールス」のメンバー・大久保喜市さんは、後に出版した著書「ストレンジブルー」で、
- 映画の主演はあくまで舘さんで、ほかのメンバーは脇役に過ぎなかったこと
- リーダーとしてすべての実権を握る舘さんに対し、メンバーから反感
- 映画にも出演したい舘さんに対し、純粋に音楽だけがやりたいメンバーが反感
と、結成当初は、血の結束を誇った「クールス」も、やがて、「舘VSメンバー6人」という構図ができてしまい、修復不可能な状態になってしまったことが原因だったと明かしています。
実際、舘さん主演の映画「男組~少年刑務所」では、水口晴幸さんとジェームス藤木さんは、舘さんへの反感から、出演を拒否されていたそうです。
(ちなみに、「クールス」はその後もメンバーチェンジを繰り返し、現在も活動を継続しています)
「西部警察」に出演
さておき、舘さんは、1979年、「石原プロモーション」制作で、石原裕次郎さん主演のテレビドラマ「西部警察」に出演されているのですが、
実は、舘さんは、それより以前にも、石原さん主演のテレビドラマ「大都会」への出演オファーを受けており、その時は、映画と音楽だけでやっていこうと思っていたことから、テレビドラマに出演するつもりは全くなく、断られたそうで、「西部警察」では、半年でいいからという条件で、出演することになったそうです。
そのため、契約通り、舘さんが演じる巽総太郎刑事は半年で殉職するのですが、その後、石原裕次郎さんが、「大動脈瘤」で倒れられたそうで、
舘さんが、
俺に何かできないかな
と、思っていたところ、「石原プロモーション」から、
ひろし、戻ってこい!
と、お呼びがかかり、「西部警察」の鳩村英次刑事役でカムバックされています。
ちなみに、舘さんは、
正直僕は、鳩村として戻ったとき“そんなことがあっていいのか”と思いましたけど(笑)
と、語っておられました。
「西部警察」より。
渡哲也に憧れて「石原プロモーション」に入社
そんな舘さんは、1983年には、「石原プロモーション」に入社されているのですが、
「西部警察」という作品はとても楽しかったし、僕を成長させてくれましたけど、それより何より、この作品で渡(哲也)と出会えたことに意味がある…その一言に尽きます。
今でもよく覚えていますが、偉そうな大御所の俳優さんが多い中で、渡は、喫茶店で僕に初めて会ったとき、わざわざ立ち上がって握手をしてくれたんですよ。
“渡です。舘くんですね!”と。その後、撮影に入って、渡と過ごす時間の中で、改めて“この人についていきたい”と思ったんですね
と、渡哲也さんの人柄に惹かれ、自ら志願して、「石原プロモーション」に入社されたのだそうです。
「西部警察」のロケ現場より。(左から)寺尾聰さん、舘さん、渡哲也さん。
渡哲也と石原裕次郎の両方から気に入られる
その一方で、「西部警察」の地方ロケでは、宿泊したホテルでの飲み会で、ほかのみんなとはお開きになった後も、渡さんに勧められるままに、明け方まで一緒に杯を交わしたことがあったそうで、渡さんも舘さんのことを気に入っていたようです。
また、舘さんは、社長である石原裕次郎さんに、
俺は渡哲也という男に憧れて石原プロに入りました。その渡さんは社長(石原)の背中を見て生きてきました。俺は渡さんの背中しか見ていませんから、社長の背中は見えません。
横に立って斜めから見ると2人の背中を見ることができますが、それでは社長の背中を見たことにはなりません。
という内容のことを面と向かって言ったことがあったそうですが、それからは、それまで少し距離があった石原さんからも気に入られ、何かにつけて可愛がってもらったそうです。