裕福な家庭で育つも、お父さんが戦争のための飛行機を作っていたことや、お母さんが結核を患っていたことで、愛情を一身に受けられず、精神的に不安定な少年として育っていた、宮崎駿さん(みやざき はやお)さんですが、そんな時、手塚治虫さんの作品「新寶島」に出会い、夢中になります。
「宮崎駿の生い立ちは?幼少期に体験した衝撃的な出来事とは?」からの続き
母親が結核のため愛情を一身に受けられなかった
戦争中、トラックで避難しているとき、お父さんが、幼な子を抱えて助けを求めて駆け寄ってきた人を見捨てたことに対し、何も言わなかった自分に負い目を感じていたという宮崎さんですが、
そんな中、お母さんが、「結核」に侵され、その菌が脊椎にも及んで「脊椎カリエス」を患われたそうで、
宮崎さんが、
おんぶしてほしい
と、せがむも、お母さんには断られたそうで、お母さんの愛情を一身に受け取ることができず、幼い宮崎さんは、一層、不安をかきたてられたそうです。
(お母さんは、宮崎さんが小学校に上がった直後から9年間、脊椎カリエスによる療養生活を余儀なくされたそうです)
少年時代は神経過敏で引っ込み思案だった
こうして、宮崎さんは、お母さんを失うかもしれない、という不安の中で育ったそうですが、さらには、お母さんの前では「いい子になろう」と、いい子を演じ続けたそうで、そのため、ついには、お母さんの前では、何も本音が言えなくなってしまったそうです。
また、お母さんの病気の影響で、不安感が強く、神経過敏になったそうで、着る服が変わることにさえ抵抗を感じることから、同じ服を好み、自分の意思を主張することの苦手な、引っ込み思案な少年だったそうです。
(絵は、ずば抜けて上手だったそうです。)
「天空の城ラピュタ」の空賊ドーラは母親がモデルだった
ちなみに、宮崎さんの代表作の一つである「天空の城ラピュタ」に登場する空賊の女大将ドーラは、お母さんがモデルとなっていたそうで、
ドーラは、いつも大声で手下を叱ってばかりいるガミガミ屋ながらも、心根は優しい人物として描かれているのですが、
宮崎さんのお母さんも、快活で明るく、言いたいことはズバズバいう勝ち気な性格ながら、芯は優しい女性だったそうです。(宮崎さんは、ほとんどお母さんに褒めてもらったことがなかったそうですが)
「天空の城ラピュタ」のドーラ。
手塚治虫の「新寶島」を読んで衝撃を受ける
そんな中、宮崎さんは、6歳のとき、手塚治虫さんの漫画「新寶島」(1947年刊行)を読んで衝撃を受け、以降、この作品が宮崎さんの精神的な支えとなり、手塚さんを漫画家として尊敬し、神格化するようになったそうで、
手塚治虫さんの「新寶島」より。
(ただ、後に、宮崎さんは、手塚さんの作るアニメーションに関しては批判されており、お二人は、お互いリスペクトしながらも嫉妬し合う関係だったようです)
2009年、この「新寶島」が、「新宝島」として復刊された際、プロデューサーの鈴木敏夫さんが、「宮崎さん、これ出ましたよ」と見せると、
俺に見せるな!
自分の中の手塚治虫が穢(けが)れるから、見せないでくれ
と、おっしゃったそうで、
それほど、宮崎さんの中で、「新寶島」には思い入れがあり、それを崩したくなかったそうです。
(「新寶島」は、1986年に「手塚治虫漫画全集」として刊行されているのですが、様々な事情から、手塚さんではない職人により、多くの描き変えが施されていて手塚作品とは言い難いそうで、さらに、この「新宝島」に至っては、「手塚治虫漫画全集」のリメイクということで、宮崎さんが子どもの頃に読んだ「新寶島」とは大きく異なっているそうです)
「宮崎駿が高校生の頃はシュールな暗い漫画を描いていた!」に続く
「新寶島」の冒頭部分。それまでの漫画になかった、今で言うアニメーションのようなスピード感が表現されおり、宮崎さんのほか、藤子不二雄さんや石ノ森章太郎さんにも衝撃を与えたと言われています。