おじいさんは名人・古今亭志ん生さん、お父さんはその長男の金原亭馬生さん、叔父さんは古今亭志ん朝さんと、落語界の名門出身である、池波志乃(いけなみ しの)さんですが、おじいさんは、なかなかの破天荒な人だったようです。
祖父・5代目古今亭志ん生は極貧生活を送っていた
1907年、落語家としての活動を開始すると、その後、幾度も改名を繰り返し、1921年、ついに、落語界のトップである真打にまで上り詰めた、池波さんの祖父、志ん生さんは、翌年の1922年には、結婚し、3人の子どもに恵まれます。
そして、1924年には、3代目古今亭志ん馬(ここんてい しんば)を名乗るのですが、当時の実力者だった5代目三升家小勝(みますや こかつ)さんに楯突いたことで、落語界で居場所を失い、講釈師に転身。
しかし、それでは食べていくことができず、その後、謝罪して落語家に戻るも、一向に生活は楽にならず、当時人気者であった柳家金語楼(やなぎや きんごろう )さんの紹介で初代・柳家三語楼(やなぎや さんごろう)門下に移ります。
すると、今度は、なんと、師匠の羽織を質に入れてしまったそうで、その後、なんとか詫びが叶って復帰するも、前座同然の扱いとなり、生活は困窮を極めます。
(ちなみに、この頃、志ん生さんは、身なりがひどく、仲間うちや寄席の関係者からは「死神」「うわばみの吐き出され」などのあだ名で呼ばれていたそうで、落語家としての腕はあったものの、愛想が悪く、周囲に合わせることができなかったことから、本席に出演させてもらえず、場末の寄席廻りをして、なんとか生計を立てていたのだそうです。)
祖父・5代目古今亭志ん生がようやく売れ始める
こうしてドサ回りに明け暮れる日々を送っていた志ん生さんですが、1932年、再び、3代目古今亭志ん馬を名乗るようになると、この頃くらいからようやく少しずつ売れ始めるようになり、1934年には、7代目金原亭馬生(きんげんてい ばしょう)を襲名、1939年には、5代目古今亭志ん生を襲名。
そして、1941年、「神田花月」で月例の独演会を開始すると、お客さんが大勢詰めかけ、たちまち人気を博したのでした。
(志ん生さんの噺をじっくり聞いてくれるような良い客ではなかったそうですが)
祖父・5代目古今亭志ん生が終戦後大ブレイク
そんな中、やがて、太平洋戦争の戦火が激しくなり、1945年には、陸軍から慰問芸人の取りまとめの命令を受け、同じ落語家の6代目三遊亭圓生さん、講釈師の国井紫香(2代目猫遊軒伯知)さん、夫婦漫才をやっていた坂野比呂志さん・小林美津子さんらとともに満州に渡るのですが(満州に渡ったのは、東京大空襲が怖かったからだとも言われています)、
現地でそのまま終戦を迎えたため、帰国できなくなってしまい、引き揚げ船の出航を待ちわびながら生きるか死ぬかの瀬戸際ギリギリの生活を強いられることに。
ただ、1947年、ようやく命からがら満州から帰国すると、この帰国がニュースに取り上げられて注目を浴び、人気爆発。
寄席はもちろんのこと、ラジオ番組に引っ張りだことなるなど、この頃から、志ん生さんは、人形町末廣で余一の日に独演会を催すほどの超売れっ子落語家となり、戦後の名人の一人と称された8代目桂文楽さんと並び称されるなど、東京を代表する落語として、押しも押されもせぬ不動の地位を確立し、人気絶頂期を迎えたのでした。
(※余一の日とは、通常の寄席興行を行わない月末の31日のことで、独演会などの特別興行を行うことが多い日のこと)
祖父・5代目古今亭志ん生が83歳で他界
こうして、人気落語家として一世を風靡した志ん生さんは、1957年には、8代目桂文楽さんの後任として、落語協会4代目会長に就任されるのですが・・・
1961年末、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれた口演の最中に脳出血で倒れ、3ヶ月の昏睡状態に。
その後、奇跡的に昏睡状態から目覚めるも、半身不随となってしまい、療養を経て、1962年11月11日、新宿末廣亭で高座復帰するも、持ち味だった破天荒な芸風が影を潜めてしまい、落語協会会長も1963年には辞任。
それでも、その後も、高座を務めていたのですが、1968年10月9日、精選落語会に出演した際、「二階ぞめき」を演じていたはずが、途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されると、以降、高座には上がらなくなり、1973年、83歳で他界されたのでした。
(本人は少し休んで復帰する意思があったようですが、結局これが最後の高座となっています。)
幼い頃の池波さんと祖父の5代目古今亭志ん生さん。