古くは「暴れん坊将軍」、近年では、「マツケンサンバ」でお馴染みの、松平健(まつだいら けん)さんですが、若い頃には、「ウルトラマンタロウ」の主人公・東光太郎役のオーディションで最終選考まで残ったこともあったといいます。

「松平健は少年期に石原裕次郎を観て俳優になる決意をしていた!」からの続き

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寿司職人(板前)の見習いだった

10歳の時、石原裕次郎さん主演の映画「太平洋ひとりぼっち」を観て感動し、俳優になる決意をした松平さんですが、中学卒業後、工業高校に進学すると、

働き詰めの母を助けたい

と、16歳の時、高校を中退し、寿司職人(板前)になろうと、名古屋の寿司屋に住み込みで働き始めたそうです。

(たまの休みに、実家がある愛知県・豊橋に帰り、お母さんのために、覚えたての太巻き寿司を作ることが、精一杯の親孝行だったそうです)

俳優を目指し上京

ただ、数ヶ月が過ぎた頃、やはり、俳優になりたいという夢が忘れられず、再び俳優を目指したい旨、家族に打ち明けると、みんな大反対。

それでも、お母さんだけは、

成功するかは分からないけど、自分のやりたいことをやりなさい

と、優しく言ってくれたそうで、

松平さんは、その言葉に背中を押され、1970年、17歳の時、東京行の列車に乗り込んだのでした。

(松平さんが上京する際には、お母さんは、厳しい家計の中から3万円を捻出し、手渡してくれたそうです)

石原裕次郎に弟子入り志願も断られる

こうして、俳優を目指し、上京した松平さんは、

もしかしたら内弟子になれるかもしれない

との思いから、まず、当時、成城にあった石原裕次郎さんの家を訪ねたそうですが、

その時、裕次郎さんは留守だったそうで、留守番の人に、「石原プロモーション」の方に電話をするよう言われたそうで、

改めて、「石原プロモーション」の電話番号を調べて電話をし、弟子入りを志願したそうですが・・・

「今は新人俳優は募集していない」と断られてしまったのだそうです。

俳優養成所に入所

途方にくれた松平さんは、仕方なく、上野をぶらぶらした後、ぼーっと新聞を読んでいたそうですが、たまたま俳優養成所の記事を見つけたそうで、本当は裕次郎さんに渡すはずだった願書を劇団「フジ」という俳優養成所の事務所(「宝映テレビプロダクション」)まで持っていくと、見事合格。

こうして、松平さんは、「宝映テレビプロダクション」に所属し、劇団「フジ」で4年間、演技の基礎を学ばれたそうで、

松平さんは、当時を振り返り、

母に渡された3万円ではアパートまでは借りられませんから、住み込みですよ。最初は八百屋、次が寿司屋、劇団に正式に所属してからは稽古が週2回あったので、両立が難しく青果店の配送など7カ所くらい働き口が変わりました。

携帯電話もない時代でしたが、ホームシックにならなかった。石原裕次郎さんみたいになるっていう夢がありましたから。

と、語っておられました。

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「ウルトラマンタロウ」のオーディションでは最終選考で落選

そんな中、松平さんは、1972年、19歳の時、「マドモアゼル通り」でテレビドラマデビューされているのですが(この頃「松本二郎」から「松平健」に改名されたそうです)、

同時期には、特撮ドラマ「ウルトラマンタロウ」の主人公・東光太郎役のオーディションを受けられたことがあったそうです。

ただ、惜しくも最終選考で落選。東光太郎役には篠田三郎さんが選ばれているのですが、篠田さんは、後に「ウルトラマンタロウ」のDVD記者発表で、

松平健も(主役の)候補だったんですよ

と、明かされています。

「松平健の若い頃は勝新太郎の付き人だった!」に続く

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