「北の国から」「風のガーデン」「優しい時間」など、数々のヒットドラマを世に送り出してきた、脚本家の倉本聰(くらもと そう)さんですが、今回は、そんな倉本さんのルーツである、母方のおじいさんについてご紹介します。

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年齢は?出身は?学歴は?

倉本さんは、1934年12月31日生まれ、
東京府(現・東京都代々木)のご出身、

(戸籍上は1935年1月1日生まれだそうですが、当時は、数え年で、生まれた時が1歳と考えられていたため、お正月を迎えると2歳になってしまうことを不憫に思った両親が1日遅らせたのだそうです。)

学歴は、
豊島師範附属小学校(現・東京学芸大学附属小金井小学校)
⇒麻布中学校・高等学校
⇒東京大学文学部美学科卒業

趣味は、絵画、クルマ、

特技は、怪談、スキー、

だそうです。


赤ちゃんの頃の倉本さん。

ヘビースモーカー(18歳から喫煙)

倉本さんは、18歳から喫煙を始めていたそうですが、現在も1日に60~80本も吸う愛煙家であることから、受動喫煙防止を目的に禁煙化の進む昨今の風潮を「禁煙差別」と批判されており、

神奈川県(受動喫煙防止条例)や、東京・千代田区(生活環境条例により路上喫煙を禁止)には行かないようにしているそうです。

ちなみに、好きな銘柄は、「ラーク・マイルド」で、パイプもされるそうです。


「ラーク・マイルド」

本名は?ペンネームの由来は?

倉本さんの本名は「山谷馨(やまや かおる)」なのですが、ペンネームの「倉本聰」は、父方の岡山にある本家の屋号「蔵元」と、妹さんの名前「聰子」「聰」を合わせたものだそうです。

母方の家系は身分の高い医者だった

さて、そんな倉本さんのルーツですが、まずは、倉本さんのおじいさんのお話から。

倉本さんの母方の浅井家は、もともと、新潟県・佐渡にあり、倉本さんの高祖父(ひいひいおじいさん)は、佐渡奉行所に出入りを許されていた身分の高い医者だったそうで、

(新潟県佐渡にある新潟県立佐渡高校には、今から200年前の佐渡奉行所の記録とともに、浅井家の記述も残されているそうです)

幕末の万延(まんえん)元年に生まれた、倉本さんの祖父・貞吉さんも、医師の道を志し、1881年(明治14年)、東京大学医学部に入学すると、東京大学医学部を卒業後は佐渡に戻り、1891年(明治24年)5月、予備役(よびえき)の軍医で12歳年上だったお兄さんと共に、医療設備が整った病院「浅井病院」を開業されたそうです。

(「浅井病院」開業記念として、地元の日吉神社で盛大に花火が打ち上げられたそうですが、花火の火の粉が拝殿に落ちたことが原因で神社が全焼するという事故が起きてしまったそうで、浅井家は神社再建のために多額の寄付をされたそうです。)

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祖父・貞吉は「浅井病院」を設立するも兄の死で京都に移住

開業後、貞吉さんは、お兄さんとともに、当時、地元で流行していた、肺に寄生虫が入り込み呼吸困難になる病気の治療と研究に力を注いでいたそうで、そのことについて、論文も発表するなど精力的に活動されていたのですが、

2年後には、日清戦争が勃発し、軍医不足となったことから、体を壊したお兄さんの代わりに出征し、中国から日本に戻る兵士たちを船内で治療するという任務に就かれます。

そして、日清戦争が終わると、再び「浅井病院」で働き始めるのですが(その直後にお兄さんは他界)、それからしばらく経ったある日のこと、京都で医師をしていた東大時代の友人から、京都で医師が不足しているから京都に来ないか、と書かれた手紙を受け取ったそうで、当初、迷うも、地元の後輩医師が「浅井病院」をそのまま引き継いでくれることになったことから、京都に行くことを決意。

こうして、貞吉さんは、35歳の時、京都に移り住むと、手紙をくれた東大時代の友人のもとで、そのまま、友人の病院を引き継がれたのだそうです。

(貞吉さんは、京都に移り住むとすぐ、佐渡から京都に来た若者を下宿させたり、仕事を紹介するなど、とても面倒見が良かったそうです。)

「倉本聰は父親も東大卒!日清製粉を経て出版社を経営していた!」に続く

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