母方の高祖父が身分の高い医者で、祖父も医者という、倉本聰(くらもと そう)さんですが、今回は、父方の祖父とその息子である倉本さんのお父さんについてご紹介します。
父方の祖父・山谷徳次郎も医師
倉本さんの父方の山谷(やまや)家は、もともと岡山県の庄屋だったそうで、人々の年貢を集め、領主に納めるという仕事を担われていたそうですが、
倉本さんの祖父・徳次郎さんは、医療の道を志して岡山県医学校に入学されると、卒業後は(100人入学したうち、15人しか卒業できなかったそうです)、東京帝国大学(現在の東京大学)医学部に入学し、東京帝国大学医学部を卒業後は、故郷・岡山に戻り、入院施設を備えた病院を設立。この設備の整った病院は評判になり、たくさんの患者が来たそうです。
ただ、地域の開業医から、患者を奪われたと抗議を受けたこともあったそうで、このことが原因かは不明ですが、まもなく、徳次郎さんは、恩師の病院で働いた後、製薬会社に勤められたそうです。
父方の祖父・山谷徳次郎は医療ジャーナリストとしても活動
そして、2年後には、最新の医学を学ぶためドイツに留学されると、ドイツで病理学の博士号を取得。その後、医学専門雑誌の発行を始めるべく、東京神田に「日新医学社」という出版社を立ち上げられると、医学情報誌「医界時報」を出版するなど、精力的に活動されます。
また、徳次郎さんは、医学図書館設立にも尽力されたそうで、1920年(大正9年)には医学図書館を設立し、当時、世界的に有名だった学者・野口英世さんに公演を依頼されるなど、医学ジャーナリストとしても活動されたのでした。
父親・山谷太郎はキリスト教徒
ところで、徳次郎さんは、明治24年に結婚されると、長男・太郎さん(倉本さんのお父さん)が岡山で誕生。太郎さんは、その後しばらく徳次郎さんと東京で暮らすと、高校生の時には岡山に戻り、旧制第六高等学校に進学されます。
(太郎さんは、旧制第六高等学校では柔道部に所属していたそうですが、柔道部は全国8連覇を成し遂げるほど強かったそうで、上下関係も厳しかったそうですが、太郎さんの後輩によると、太郎さんは優しかったそうです)
そして、その後、太郎さんは、東京帝国大学工学部に進学されると、酵母菌の研究に熱中し、食品の研究職に尽きたいと思っていたそうですが、大学3年の時、「急性腎炎」を発症してしまったそうで、
2年間の入院生活を経て、ようやく退院するも、病気のせいで柔道ができなくなってしまったそうで、そのショックで心の拠り所を求め、東京・信濃町教会でキリスト教に入信されたのだそうです。
父親・山谷太郎の最初の妻が急死
そんな太郎さんは、2年遅れで東京帝国大学を卒業されると、「日清製粉」に就職し、酵母菌の研究に取り組まれたそうで、翌年には、志津子さんという方と結婚し、2人の子どもに恵まれます。
しかし、入社3年目に、父・徳次郎さんが「日本脳炎」で倒れたことから、「日清製粉」を退社され、徳次郎さんが経営する「日新医学社」を引き継がれたのですが、その2年後には、妻・志津子さんが急死してしまいます。
父親・山谷太郎は特高警察に逮捕され取り調べを受けていた
それから3年後、太郎さんは、叔父さんの紹介で、同じくキリスト教徒の綾子さん(倉本さんのお母さん)と再婚されると、(倉本さんを含む)3人の子どもに恵まれるのですが、出版社の経営に神経をすり減らす毎日だったそうで、唯一の癒やしの時間が野鳥の観測だったそうです。
(太郎さんは、戦前、「野鳥歳時記」という本を出版されており、戦後も版を重ねられているのですが、倉本さんは、その、美しい野鳥の絵を巻頭に並べたお父さん(太郎さん)の野鳥への愛情が伝わってくる本を今でも大事にされているそうです。)
そして、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まると、
太郎さんは、
人間同士で審判し、剣によってことを解決しようとすること。これ以上に戦争の罪悪性を決定づけるものはない
と、機関紙に書かれるのですが、
これが問題に発展して、太郎さんは特高警察に逮捕され、取り調べを受けることに。
教会関係者のかけあいで、なんとか数日後には自宅に戻ることができたそうですが、以降、警察から監視されるようになったそうで、そのため、出版社の経営にも影響が出て、1944年(昭和19年)には、ついに出版社の経営を他人に譲ることとなってしまい、太郎さんは、失意の中、故郷・岡山に家族とともに疎開されたのでした。
それでも、太郎さんは、戦後、東京に戻り、新たに出版社を立ち上げられたそうですが、経営はうまくいかず、1952年(昭和27年)には、大学時代に患った「腎炎」が再発し、52歳という若さで他界されたのでした。(狭心症が悪化したという説もあり)
「倉本聰の幼少期は裕福な家庭で俳人の父親の元のびのびと育っていた!」に続く