母方、父方ともに医師の家系という裕福な家庭に誕生し、山谷春潮の俳号を持つ俳人でもあるお父さんのもと、自然の中で何不自由なくのびのびと育った、倉本聰(くらもと そう)さんは、幼少期からお父さんの薫陶を受けていたといいます。
「倉本聰は父親も東大卒!日清製粉を経て出版社を経営していた!」からの続き
幼少期は裕福な家庭でのびのびと育つ
倉本さんは、敬虔(けいけん)なクリスチャンだった両親のもと、5人兄弟(お父さんの前妻の子どもで倉本さんとは腹違いの姉と兄2人と、両親ともに同じ妹と弟2人)の次男として、東京の国鉄(JR)代々木駅前にある豪邸で誕生すると、
4歳の時には杉並区の善福寺に引っ越しするも、そこもまた大豪邸という、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうで、
(倉本さん一家がこんな邸宅に住むことができたのは、母方のおじいさんのお陰だったそうです)
子どもの頃は、雑木林や畑の中に藁葺(わらぶ)きの農家が点在し、野鳥のさえずりが聞こえる、善福寺の豊かな自然の中、野原や林を駆け回り、夕方になると、澄んだ池に瓶でできた筒に餌を仕込んで罠をしかけ、フナ、ダボハゼ、ナマズを取って遊ぶなど、のびのびと過ごされたそうです。
幼少期から父親に宮沢賢治の童話を音読させられていた
また、倉本さんは、就学前の5歳くらいの時から、山谷春潮の俳号を持つ俳人であるお父さんから、宮沢賢治の童話を大きな声で音読させられたそうで、
(お父さんは、水原秋桜子が主宰する「馬酔木(あしび)」の同人で、主に、大好きな野鳥の句を詠んでいたそうです)
意味は分からなくていい、文章の点とマルをしっかり考えて読みなさい
と、「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「貝の火」など毎週一冊音読させられたそうです。
(倉本さんは、後に、宮沢賢治の童話には詩のように美しい韻律(いんりつ)があるため、音読を続けたことで、文章の呼吸とリズムが脳と心に染み込んだと語っておられます。)
幼い頃から父親に俳句を作らされていた
そして、お父さんには、俳句もよく作らされたそうで、
ある時、倉本さんが、
青麦の茂るまにまに畑人(はたけびと)
と、なんとかひねり出して俳句を作り、お父さんに見せると、
お父さんは、
とてもいい句だよ
と、褒めてくれたそうですが、
お父さんは、すぐに、落胆の表情になり、
まにまにかあ、やっぱり子どもの句だなあ
と、言ったことがあったそうですが、
(お父さんは、最初、「まにまに」を「間(ま)にまた」と読み違えて褒めてくれたのですが、「まにまに」と書いてあるのに気づき、落胆したのでした)
倉本さんは、40歳になってから、このようなやりとりが、お父さんが遺してくれた大きな遺産だったことに気付いたのだそうです。
幼少期から父親に連れられて野鳥の観察をしていた
また、倉本さんが4、5歳の時には、お父さんに連れられて、富士山、丹沢、秩父、南アルプスの野山を歩きながら、野鳥を観察したり、鳴き声を楽しんだそうで、
(お父さんは、「日本野鳥の会」の設立メンバーだったそうです)
倉本さんは、2015年、日経新聞「私の履歴書」に、
山歩きのことはあまり覚えていない。だが自然への憧憬や愛着が強いのは、この幼時体験のおかげだろう。
山の気を胸いっぱいに吸い込み、緑の木々の間を縫って聞こえてくる野鳥の鳴き声に耳を傾ける。贅沢(ぜいたく)で幸せな体験だ。
と、感謝の念を綴っておられます。