1963年、テレビドラマ「現代っ子」が大ヒットしたことで、ラジオ局「ニッポン放送」を退社し、フリーで活動していた、倉本聰(くらもと そう)さんですが、1974年には、脚本を担当していたNHK大河ドラマ「勝海舟」を降板させられるという、前代未聞の出来事が起こります。今回は、その経緯を順にご紹介していきます。
「倉本聰はニッポン放送時代に内緒で書いた「現代っ子」が大ヒットしていた!」からの続き
NHK大河ドラマ「勝海舟」の主演・渡哲也の病気を心配して降板させていた
1963年に「ニッポン放送」退社後はフリーとなり、次々と作品を発表されていた倉本さんは、1973年には、子母澤寛さんの同名小説を原作とするNHK大河ドラマ「勝海舟」の脚本のオファーをNHKから受け、執筆を開始されているのですが、
撮影が始まり、ほどなくすると、主人公・勝海舟を演じる渡哲也さんが「肋膜炎」にかかってしまったそうです。
それでも、渡さんは高熱を押し、点滴をしながら、2~3週間、NHKのスタジオに通われていたそうですが、ディレクターの勅使河原平八さんは、そんな渡さんを見て見ぬ振りし、上司にも報告しなかったそうで、
倉本さんは、見るに見かねて、NHKの制作部長に、
これは人道上の問題ではないか
と、訴えると、事態をまったく知らされていなかった制作部長はびっくり仰天し、急遽、渡さんの降板を指示。
こうして渡さんは、「勝海舟」を降板することになったそうです。
渡哲也の代役として松方弘樹を口説き落とす
ただ、渡さんが降板した後、代役を立てなければ、ドラマの放送も中止となってしまうため、NHKは、前年、映画「仁義なき戦い」で人気が高まっていた松方弘樹さんをキャスティングしようという案が出たそうですが、当時売出し中だった松方さんをキャスティングするなんて到底無理だろうと、NHKの人間は誰も動かなかったそうで、
たまりかねた倉本さんが、「東映」の本社に出向き、岡田茂さん(当時の「東映」社長)に、松方さんの大河ドラマ出演を直談判されると、
(NHKのプロデューサーに泣きつかれたという説もあり)
岡田社長は、
今から大阪行けるかい?
と、言ったそうで、
倉本さんが、
行けます
と、答えると、
岡田社長は、
じゃあ俺電話入れておくから本人を口説いてくれ
と、言ってくれたことから、
倉本さんはその足で新幹線に飛び乗って大阪へ向かい、梅田のコマ劇場に出演中だった松方さんに会いに行かれたのでした。
そして、大阪に到着し、倉本さんがコマ劇場に入っていくと、
松方さんは待っていてくれたそうで、
岡田社長から聞きました
やらせていただきます
と、即答してくれたのだそうです。
渡哲也から松方弘樹への主役交代は無理があった
そこで、NHKは、渡さんを青年期、松方さんを壮年期とパート分けしたそうですが、途中まで渡さんが演じていた勝海舟役を、同年代の松方さんが引き継ぐのは、さすがに無理があったそうで、
松方さんは、当時のインタビューで、
映画育ちゆえドラマ撮影に付いていくのが大変
芝居は最初に演じた人がいいに決まっている
と、苦労があったことをにじませています。
「倉本聰は「勝海舟」でNHKの労働組合に圧力をかけられていた!」に続く