お母さんやお兄さんから、強制的に「遠藤実歌謡教室」に通わせられると、そのまま、家族の敷いたレールの上に乗せられ、プロの歌手を目指すことになった、橋幸夫(はし ゆきお)さんは、家族の顔を潰せない一心で、嫌々ながらレッスンを受けていたそうですが、いよいよ、デビューに向け、オーディションを受けることになります。

「橋幸夫の少年時代は家族の意向で嫌々歌手を目指していた!」からの続き

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遠藤実からオリジナル曲を渡される

「遠藤実歌謡教室」でレッスンを受けるようになって1年過ぎた頃、本科に進んで本格的に歌を習い、プロを目指すことになった橋さんですが、

2年目には、音譜を習うように言われ、全部、ピアノで譜面が読めるように勉強されたそうです。

そして、3年目に入る少し手前あたりで、遠藤先生は、レッスン曲として、自身が作曲した、橋さんだけのためのオリジナル曲をくれたそうです。

(このオリジナル曲は、ほかの歌謡学校とは比べ物にならないくらい、しっかりしたものだったことから、プロになる人がとても多かったそうで、「遠藤歌謡教室」は生徒が70人ほどいたそうですが、趣味で習っていた人は辞めていき、また新しい人が入ってくる、というような教室だったそうです。)

素人のど自慢大会で初めて客前で歌唱するも散々だった

そして、3年目が始まる高校1年生の時、橋さんは、突然、遠藤先生から、今度は実践を踏んでいこうと、荻窪の夏祭りの、素人のど自慢大会に出るように言われたそうで、

橋さんは、言われた通り、素人のど自慢大会に出場し、レッスン曲だった遠藤先生の曲を歌ったそうですが・・・

お客さんからは、「若い人の歌はいいね」と嫌味っぽく言われ、散々だったそうです。

3年間のレッスンは一度も休まなかった

ちなみに、橋さんは、歌のレッスンが苦痛でたまらず、しょっちゅう、休みたい、辞めたいと思いながらも、3年間、1日も休まず、レッスンに通い詰め、皆勤賞をもらったそうですが、

橋さんは、レッスンを続けられた理由を、

母や兄の顔を潰せないというのが正直な気持ちでしたね

と、明かされています。

遠藤実に「日本コロムビア」のオーディションに連れて行かれる

さておき、高校2年生になる時、3年間のレッスンを終えた橋さんは、

遠藤先生から、

そろそろデビューの方向を決めるから

うちの会社(日本コロムビア)のオーディション受けに行こう

と、言われ、先生と一緒に行くことに。

(遠藤先生は、「日本コロムビア」専属の作曲家で、橋さんがプロとしてやっていくためのレールを敷いてくれていたそうです)

すると、とても大きなスタジオの中に、ディレクターが1人いたそうで、

その人から、

今日は遠藤先生の愛弟子なんで、特別なオーディションを私が受けますから

と、言われ、橋さんは、村田英雄さんの「蟹工船」「人生劇場」の2曲を歌ったそうです。

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「日本コロムビア」のオーディションは不合格

すると、そのディレクターが、橋さんの顔を見て「君はいくつなの?」と聞いてきたことから、

橋さんが、

はい、16です

と、答えると、

そのディレクターは、

そんなにまだ若いのか!

先生、ちょっと若過ぎますよ。うちじゃあ第一、村田御大がいるから、こういうのはちょっと難しいかなあ

と、半分断りモード。

これに対し、先生は、ちょっとムッとなり、

先生:わかった。もううちではいらないんだな
ディレクター:いえいえ、そんなことないんですけど

などのやり取りがあったそうで、

その後、橋さんは、先生に「よし、もう帰ろう」と言われ、先生と2人で帰ったのだそうです。

「橋幸夫は高校生で「ビクター」のオーディションに合格していた!」に続く

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