1960年7月、ファーストシングル「潮来笠(いたごがさ)」でデビューすると、あっという間に大スターになった、橋幸夫(はし ゆきお)さんですが、デビュー後、しばらくは、人気スターゆえに、超多忙な日々を送られていたそうです。
「橋幸夫はデビュー曲「潮来笠(いたこがさ)」が大ヒットしていた!」からの続き
デビュー直後は凄まじい忙しさだった
橋さんが、1960年7月に、ファーストシングル「潮来笠」でデビューすると、その1ヶ月前に出演した超人気番組「ロッテ歌のアルバム」を見ていた人たちが、「橋幸夫ってあの時出ていたんじゃない」「あの子だったのね」と分かり、「橋幸夫ファン」が全国的に増えていったそうで、
橋さんは、「フランク永井ショー」、錦糸町の「江東劇場」、浅草の「国際劇場」、大阪の「大阪劇場」など、立て続けに舞台に出演し、デビューから9ヶ月後の1961年3月には、「浅草国際劇場」で初めてワンマンショーが開催されたそうですが、
1日3回の公演を1週間すると、7万8千人もの人が集まったそうで、以来、毎年やるようになったそうです。
(公演1回で3300人のお客さんが入る計算でも、1週間7万人なので、それを上回る7万8千人を集めた橋さんの人気が、いかに凄まじかったかが分かります。)
年間4~5本の映画に出演
また、橋さんは、1960年7月にデビューした後、その年の12月末までに、初出演映画「潮来笠」、2作目「おけさ唄えば」、3作目「喧嘩富士」と、3本もの映画に出演したうえ、翌年1961年1月からは、歌手活動の合間に、年間4~5本の映画を撮ったそうで、
「潮来笠」より。橋さんと近藤美恵子さん。
「おけさ唄えば」より。橋さんと水谷良重さん。
「喧嘩富士」より。勝新太郎さん(左)と橋さん(右)。
橋さんは、当時の多忙ぶりについて、
(昔は映画の公開のペースが)早いですよ。大映、松竹、競争の時代。東映も。これは全部、京都の撮影所なんです。京都に通ってテレビに出て、また撮影に入っていて・・・。これをもうずーっと3~4年忙しくやった
と、明かされています。
(橋さんは、大映映画の専属になったそうです)
高校3年は学校に行かなかったにもかかわらず卒業出来ていた
さておき、こうして、あっという間に寝る時間もままならなくなった橋さんは、デビューから3年程は、睡眠時間は1日3~4時間で休みなし、という毎日だったそうですが、若さはもちろんのこと、少年時代にボクシングや柔道で体を鍛えていたことから耐えることができたそうですが、
デビューしたのが高校2年生だったことから、翌年の高校3年生の時には、全然学校へ行けず、卒業も危ぶまれたそうです。
ただ、お母さんやお兄さんが学校に交渉してくれ、校長先生が理解のある人だったこともあり、卒業を約束してもらったそうで、親友の青柳くんにレポートを全部書いてもらい、無事に卒業できたのだそうです。
(卒業式にも行けず、お母さんが代わりに卒業証書を取りに行ってくれたそうです)
「橋幸夫が若い頃は吉永小百合とのデュエット「いつでも夢を」が大ヒット!」に続く