「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」(マカロニ・ウエスタン3部作)で、「名無しの男」を演じ、ヨーロッパやアジアを中心に大ブレイクするも、アメリカでは、黒澤明監督の「用心棒」の盗作問題を巡る訴訟騒動で、公開が先延ばしにされ、評価が低いままだった、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)さんですが、1967年、アメリカで立て続けにマカロニ・ウエスタン3部作が公開されると、アメリカでも大ブレイクします。
「クリント・イーストウッドが若い頃は「荒野の用心棒」が大ヒット!」からの続き
「マカロニ・ウエスタン3部作」がアメリカで公開されると大ヒット
「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」と、マカロニ・ウエスタン3部作(ドル箱3部作)が立て続けに大ヒットを記録し、たちまち、スターダムに駆け上ったイーストウッドさんですが、
「荒野の用心棒」は、黒澤明監督の映画「用心棒」を著作権を正式に得ないまま、脚本をそのまま翻訳して書き写したため、セルジオ・レオーネ監督たちは、「東宝」から訴訟を起こされてしまっており、アメリカでは、公開が先延ばしにされていました。
ただ、1967年になり、3部作立て続けにアメリカで公開されると、イーストウッドさんを含め当事者たちの予想をはるかに上回る、世界的なヒットを記録。
これまで、アメリカ国内での知名度は低く、ハリウッドにおけるイタリア映画出演の偏見もあり、自身の成功を実感できずにいたイーストウッドさんも、ようやく、アメリカ国内で俳優としての成功を感じたのでした。
「荒野の用心棒」のヒットは予想していなかった
ちなみに、このことに対し、意外にもイーストウッドさんは、
まさか、あんな展開になるとは思ってなかったよ。これは昔話になるのでつまらなかったら聞かなくてもいいが(笑)、『用心棒』のあのリメイク(『荒野の用心棒』1964年)がヒットするなんて予想してなかったんだ。
『Il Magnifico Straniero(原題)』というタイトルも知らなかったし。<Variety>誌で『Magnificoなんちゃら』の公開情報を見ても、イタリアで西部劇を撮ったなと思い出す程度で、マカロニ・ウエスタンが騒がれても自分の出演作だとは思わなかったんだ(笑)。
後になって「クリント・イーストウッド主演」と出て、初めて自分の名前を映画で見た。まさかと思ったが、そこからすべてが始まったんだ。
と、語っています。
セルジオ・レオーネ監督と決別
ただ、イーストウッドさんによると、この3部作の成功の過程で、これまで無名だったレオーネ監督が、野心丸出しで、大作路線を突き進もうとしたそうで、これに違和感を感じたイーストウッドさんは、「続・夕陽のガンマン」を最後にレオーネ監督と決別。
レオーネ監督は、わざわざ、イーストウッドさんの自宅まで、次作「ウエスタン」の脚本を持って、出演依頼に来たそうですが、イーストウッドさんは、これを辞退されたのだそうです。
アメリカに凱旋帰国し立て続けに映画に出演
さておき、アメリカでもマカロニ・ウエスタン3部作が大ヒットし、世界的なスターとなったイーストウッドさんは、アメリカに凱旋帰国すると、マカロニ・ウエスタン3部作でタフガイのイメージが定着したこともあり、1968年には、「ローハイド」とレオーネ監督作品の要素を取り入れた西部劇「奴らを高く吊るせ!」に出演するほか、
「マンハッタン無宿」(1968)
「荒鷲の要塞」(1968)
「ペンチャー・ワゴン」(1969)
「真昼の死闘」(1970)
「戦略大作戦」
「白い肌の異常な夜」(1971)
「恐怖のメロディ」(1971)
と、映画に立て続けに出演したのでした。
「クリント・イーストウッドは若い頃「ダーティハリー」で大ブレイクしていた!」に続く
「真昼の死闘」より。