司会業のおもしろさに目覚め、人気司会者・大久保怜さんに弟子入りした、大村崑(おおむら こん)は、やがて、コメディアンに興味を持つと、大きなチャンスを掴み、大ブレイクを果たします。
「大村崑は昔神戸のキャバレー「新世紀」でボーイをしていた!」からの続き
灰田勝彦ショーでの司会で客を笑わせたいと思うように
人気司会者の大久保怜さんに弟子入りし、灰田勝彦さん、小畑実さん、笠置シヅ子さんら、人気歌手の地方公演の司会を受け持つようになった大村さんですが、
ある時、灰田勝彦さんのショーで、いつものように、灰田さんが最後に代表曲「野球小僧」を歌い、ワンコーラスを終えた後、大村さんが、舞台袖からサイン入りのボールを灰田さんに投げ、灰田さんがそれを客席に投げていたそうですが、
大村さんが、舞台袖からボールを投げるも、うまく届かず、少し前に出て投げるも、それでも、届かずにいると、これが客にウケたそうで、
大村さんは、だんだん、舞台中央に近寄っていき、最後には、手渡しで届く距離から灰田さんに投げると、灰田さんがそれを客席にヘディングしたそうで、これがまたお客さんに大ウケ。
この時、大村さんは、歌手の縁の下でいるより、
自分でお客さんを笑わせたい
と、思うようになったのだそうです。
映画館「北野劇場」の専属コメディアンに
すると、そんな願いが通じ、やがて、舞台での大村さんの司会を観ていた、大阪・梅田の映画館「北野劇場」の支配人が、大村さんの師匠・大久保怜さんに、
あの面白い子を貸してほしい
と、言ったそうで、
大村さんは、1957年、大久保さんの許しを得て、「北野劇場」の専属コメディアンとなったのでした。
テレビドラマ「やりくりアパート」でブレイク
そんな大村さんは、1957年、「北野劇場」で、脚本家の花登筺(はなと こばこ)さんと知り合い、
(花登さんは、もともと、ストリップ劇場の幕間コントの台本を書いていたのですが、「東宝」と契約し、「北野劇場」でもコントなどの台本を書くようになったそうです)
花登さんが書いた、恋愛話が勘違いから騒動になるといった軽いコントを演じると、たちまち評判になり、1958年には、花登さんと共にテレビ界に進出。
そして、同年には、花登さんが脚本を手掛けた、安アパートの住人が繰り広げる珍騒動を描いたテレビドラマ「やりくりアパート」で、学生・コンちゃん役を演じると、高視聴率を記録したのでした。
「やりくりアパート」より。(左から)大村さん、佐々十郎さん、芥川一郎さん。
CM「ダイハツ・ミゼット」やTVドラマ「番頭はんと丁稚どん」も大ヒット
また、大村さんは、番組中の生CM「ダイハツ・ミゼット(三輪自動車)」で、ずれ落ちたロイド眼鏡をかけて出演しているのですが、これも大ヒット。
さらに、翌年の1959年には、芦屋雁之助さん、小雁さんと共演した、花登さん脚本のテレビドラマ「番頭はんと丁稚(でっち)どん」で、ちょっとオツムの弱い「丁稚の崑松」役を演じると、またしても、テレビドラマは大ヒット。
こうして、大村さんは、たちまち、全国的な人気者となったのでした。
ちなみに、大村さんと花登さんは、年が近かったこともあり(大村さんが花登さんよりも3歳年下)、お互い、「こんちゃん」「こばこちゃん」と呼び合うほか、同じアパートに住み、夜に花登さんが書いた台本を、朝に大村さんが清書するなど、とても仲が良かったそうです。
「ダイハツ・ミゼット(三輪自動車)」のCMより。大村さん(左)と佐々十郎さん(右)。