設立前に大手レコード会社から圧力をかけられた、「フォーライフ・レコード」ですが、強力な助っ人が現れ、無事発足します。ただ、わずか2年後には、泉谷しげる(いずみや しげる)さんは、吉田拓郎さんと口論し、「フォーライフ・レコード」を退社することになります。

「泉谷しげるは「毒がある」という理由で吉田拓郎に誘われていた!」からの続き

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「ポニーキャニオン」のサポートで「フォーライフ・レコード」が発足

設立時には、大手レコード会社から圧力をかけられ、レコードのプレスと流通ルートが止められた、新会社「フォーライフ・レコード」ですが、そんな中、「ポニー」及び「キャニオンレコード」(現「ポニーキャニオン」)の石田達郎社長が手を差し伸べてくれたそうで、

プレス・販売を「キャニオンレコード」が、販売委託を「ポニー」が受け持ってくれ、1975年4月、小室等さんを社長に、社員30数名の新レコード会社「フォーライフ・レコード」は、無事、発足。

初年度1975年の売上高は、業界全体売上184億円中、31億円に達します。

(「フォーライフ・レコード」は、大手レコード会社からレコードのプレスと流通ルートに圧力をかけられ、やむなく人件費が日本より安い、韓国でのプレスや通信販売を検討していたそうですが、実際のところ、各レコード会社は大きな売り上げが予想される「フォーライフ・レコード」を手掛けたいのが本音だったようです)

吉田拓郎が小室等に代わり代表取締役社長に就任

しかし、翌年の1976年11月には、泉谷さん、小室等さん、吉田拓郎さん、井上陽水さんら4人のスプリット・アルバム「クリスマス」を初回プレス30万枚で発売するも、売上は、累計10万枚にも満たなかったそうで、

このことが、「フォーライフ・レコード」の屋台骨を揺るがし、1977年3月期には、総売上8億円にまで落ち込んでしまいます。

そのため、同年6月には、吉田さんが、小室さんに代わり、代表取締役社長に就任しようとするのですが、泉谷さんと井上陽水さんはこれに反対。

ただ、吉田さんが、

みんなの意見を聞いていたら3ヶ月で出るレコードが1年かかる。フォーライフの再建は俺しかない

と、強引に就任したことから、泉谷さん、井上さん、小室さんの3人は経営から手を引き、プロデューサーとなったのでした。

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吉田拓郎のワンマン経営に嫌気が差し「フォーライフ・レコード」を退社

その後、吉田さんは、自身の音楽活動を辞め、大手プロダクションやレコード会社社長に対する飲食接待や接待ゴルフ中心の活動となっていくほか、プロデューサーとして、水谷豊さんなどの歌謡曲を手掛けるようになったそうで、

ついに、泉谷さんは、「以前のフォーライフの考え方と違う」と、吉田さんと口論の末、1977年7月13日、「フォーライフ・レコード」を退社。

ただ、泉谷さんは、事情を知らないファンから、「フォークの裏切り者」と呼ばれるようになり、ファンが一気に激減したそうで、ライブをやっても客が入らなくなり、貯金で食いつなぐ日々が続いたのだそうです。

(泉谷さんは、1978年10月には「80のバラッド」、1979年10月には「都会のランナー」と、大ヒットアルバム「春夏秋冬」をプロデュースした加藤和彦さんがプロデュースしたアルバムを発表し、作品自体は高い評価を得るのですが、「フォーライフ・レコード」離脱の影響からか、セールスには結びつかず、ライブの本数を減らさざるを得なかったそうです)

「泉谷しげるは「戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件」の犯人役でブレイクしていた!」に続く

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