1972年には、失踪事件を起こすも、その後は、順調に俳優としてのキャリアを積んだ、藤岡弘、(ふじおか ひろし)さんは、1984年には、映画「SFソードキル」に主演として出演し、ハリウッド進出も果たしています。
「藤岡弘、は「仮面ライダー」復帰後ブレイクも失踪していた!」からの続き
ハリウッド映画「SFソードキル」で主演
藤岡さんは、1984年には、テレビドラマ「二人の武蔵」を見た、ハリウッドの製作会社「チャールズ・バンド」からオファーを受け、映画「SFソードキル」で主人公のタガ・ヨシミツ役に抜擢されているのですが、
映画は、世界24カ国で公開されると、高い評価を受け、1985年には、「パリ国際ファンタスティック&SF映画祭」で批評家賞を受賞。藤岡さんも、ハリウッド映画に初主演したことで、大きな注目を集めています。
「SFソードキル」より。
(藤岡さんは、この映画に出演するため、日本人で初めて「全米映画俳優組合」に加入しています)
「SFソードキル」では真剣を使っていた
ちなみに、この「SFソードキル」、最初の戦いのところでは、真剣が使われていたそうで、藤岡さんによると、当時、ハリウッドが考える日本のイメージは、実際とはかなり違って陳腐で、どうしても違うと納得のいかなかったところは、意見を言うようにしていたそうで、
撮影には、本物の日本刀を持ち込んで臨み、撮影前には、真剣演武や手裏剣などの古武術をやってみせながら、本来の侍の生き様を説明し、ハリウッドのスタッフに、侍の精神を正しく認識してもらったそうで、
藤岡さんは、
当時の日本に対する認識や撮影現場の状況から見ても、私の主張を多く受け入れ、認めてくれて敬意を払ってくれたことは、奇跡だったと思います。
と、語っています。
(そのため、脚本も大幅に変更されたそうです。)
ハリウッドの待遇や撮影方法にカルチャーショックを受けていた
ところで、藤岡さんは、「SFソードキル」の撮影にあたり、単身でハリウッドに飛んでいるのですが、空港では花束やシャンパンと共にリムジンで出迎えられ、ホテルはスイートで、トレーニングルームも用意されていたほか、オフの日は、危険だということで、ボディーガードと遊び用の車が用意されたうえ、通訳も同伴してくれ、
撮影でも、当時、日本では、カメラは基本的に1台のみで、ここぞという時にフィルムを回していたところ、アメリカでは、カメラは2台、3台の時もあったうえ、フィルムは回しっぱなしだったそうで、日本とのあまりの違いに、ひどいカルチャーショックを受けたそうです。
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