ザ・スパイダースのリーダー・田辺昭知さんと知り合い、1972年頃には、「東宝レコード」から「スパイダクション」(現・「田辺エージェンシー」)に移籍すると、女優やタレント業で人気を博すようになった、研ナオコ(けん なおこ)さんですが、1975年には、ついに、歌手としても大ヒットを飛ばします。
「研ナオコが若い頃は「ミノルタカメラ」のCMで人気を博していた!」からの続き
シングル「愚図」が大ヒット
バラエティ番組やテレビドラマに出演し、お茶の間では人気を博すものの、本業の歌手の方ではなかなかヒットが出なかった研さんですが、1975年には、9月にリリースした9枚目のシングル「愚図」が、ついに、初のオリコンチャートベストテン入りとなる大ヒット。
同年末には、「第4回FNS歌謡祭」で「最優秀歌謡音楽賞」を受賞するなど、たちまち、歌手としてもスターダムへと駆け上がります。
(研さんいわく、この曲のヒットで、なぜか親戚が増えたそうです)
「愚図」
ちなみに、この「愚図」、阿木燿子さん作詞、宇崎竜童さん作曲で、研さんは、宇崎さんが歌うデモテープを聞いた時、衝撃を受け、この歌が売れなければ、「歌手を辞める」とまで思ったそうですが、
それまで全然売れなかったんですけど、『愚図』が売れて、うちの社長・田邊昭知っていう顔の恐い人が(笑)、ヒット記念パーティーを開いてくれたんです。
そのとき、初めて社長が泣いたんですよ。鬼の目にも涙って、ああいうことですよね。社長も、相当がんばったんだなーと思いました。その場面は忘れられないですね。
と、語っています。
シングル「あばよ」が大ヒット
そんな研さんは、次の10枚目シングル「一年草」(1976年2月)、11枚目シングル「LA-LA-LA」(1976年6月)もヒット。
「一年草」より。
「LA-LA-LA」より。
さらには、12枚目のシングル「あばよ」が、自身初のオリコン1位を獲得する大ヒットとなり、同年末の「第27回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たすと、「第18回日本レコード大賞歌唱賞」「日本歌謡大賞放送音楽賞」「FNS歌謡祭最優秀歌謡音楽賞」など、数多くの賞も受賞したのでした。
「あばよ」より。
また、その後も、
1977年3月「風をくらって」
6月「オヽ神様」
9月「ふられてやるさ」
「風をくらって」
「オヽ神様」
「ふられてやるさ」
1978年3月「かもめはかもめ」
7月「窓ガラス」
10月「みにくいあひるの子」
「かもめはかもめ」
「窓ガラス」
「みにくいあひるの子」
と、「ナオコ節」と言われる独特な歌声と歌唱法でヒットを飛ばすと、研さんは、一躍、人気歌手の仲間入りを果たしたのでした。
中島みゆきの詩の世界観に共感していた
ところで、研さんのヒット曲「LA-LA-LA」「あばよ」「かもめはかもめ」の作詞作曲は中島みゆきさんなのですが、研さんは、飛行機の中で、初めて中島さんの曲「アザミ嬢のララバイ」を聴いた時に、
私、この人の歌の世界好きだ
と、中島さんの持つ、歌の世界、詩の世界のすべてが好きになったそうで、
さっそく、翌日、マネージャーに、
この人に曲つくってほしいんだけど、聞いてみてくれる?
と、頼んで、中島さんに曲を作ってもらうことになったそうですが、
研さんは、中島さんの第一印象について、
レコーディングの日だったんですけど、どこにいるか分からなくて。スタジオの隅っこで、メガネかけて髪の毛引っ張って結んで、地味な洋服着て、短い鉛筆で詞を書いてたんです。
不思議な感じでしたね。こういう人が、ああいう歌の世界を書くんだ、って。もう、挨拶しかできなかったですね。こう見えても、けっこう人見知りなもんで。エヘヘヘ(笑)
と、語っています。