依頼され、森進一さんのために制作した「襟裳岬」がミリオンセラーとなる大ヒットとなった、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、実は、この「襟裳岬」、当初はB面扱いだったといいます。
「吉田拓郎は森進一に提供した「襟裳岬」がミリオンセラーとなっていた!」からの続き
「襟裳岬」はB面扱いから森進一の強い希望でA面になっていた
当時、森進一さんが契約していたレコード会社「日本ビクター」が設立50周年という節目を迎えるにあたり、「日本ビクター」の屋台骨を支えてきた歌手が一斉に新曲をリリースしようとなり、
森さんだけは、何か新しい発想のレコードをリリースしようと、吉田さんに依頼が来て、完成した「襟裳岬」ですが、
吉田さんのデモテープを聴いた、「日本ビクター」の上層部や、森さんが所属していた「渡辺プロダクション」のスタッフたちの反応は、
今回のA面にはふさわしくないのでは?
フォークソングのイメージに森は合わない
こんな字余りのような曲を森が歌うのはちょっと・・・
と、厳しいもので、シングル盤のB面扱いとして話が進められていたそうです。
しかし、3番の歌詞の、
日々の暮らしはいやでも やってくるけど
静かに笑ってしまおう
いじけることだけが 生きることだと
飼いならしすぎたので
身構えながら 話すなんて
ああ おくびょうなんだよね
に感動したという、森さんが、「渡辺プロダクション」の反対を押し切り、両A面という形でこのシングルをリリースすることになったのだそうです。
「襟裳岬」は森進一を励ますために作られた曲だった
実は、森さんは、この頃、虚言癖のあるファンからの謂(いわ)れのない誹謗中傷、お母さんの自殺、マスコミによる根拠のないバッシングと、引退を考えるほど、耐え難い苦痛が重なっていた時期で、
奇しくも、同時期に、女子大生にでっちあげられた虚言で逮捕され、マスコミから激しいバッシングを受け、音楽活動の自粛を強いられるなど、散々理不尽な目に遭わされた吉田さんが、同じような境遇にいた森さんを励ますために書いた曲が、この「襟裳岬」だったのだそうです。
吉田拓郎は森進一の歌う「襟裳岬」があまりに原曲とかけ離れていて腰を抜かしていた
とはいえ、吉田さんは、初めて森さんが歌ったデモテープを聴いた時、そのアレンジ(冒頭にトランペット)があまりに自身が作った原曲とかけ離れていて、腰を抜かしたそうで、
びっくりした~俺、トランペットを聴いた時、倒れたもん
と、明かしています(笑)
さておき、この後も吉田さんの快進撃は続き、
1975年には、かまやつひろしさんに「我が良き友よ」
1977年には、キャンディーズに「やさしい悪魔」
中村雅俊さんに「いつか街で会ったなら」
1978年には、石野真子さんに「狼なんか怖くない」
1983年には、風見しんごさんに「僕 笑っちゃいます」
1999年には、Kinkikidsに「全部だきしめて」
と、ジャンルを問わず数多くの歌手やアイドルに提供した楽曲が大ヒットとなっています。
「吉田拓郎は岡本おさみ作詞の「襟裳岬」を大幅に変更させていた!」に続く