中学生の頃、戦争中でも着物をきれいに着こなしていたお母さんの影響を受けてファッションに目覚めると、終戦後には、単調な色の洋服しかなかった中、色のあるセーターを自作したという、芳村真理(よしむら まり)さんは、高校時代には、ストッキングの実演販売でストッキングブームを巻き起こし、有名デパートから引っ張りだこになったといいます。

「芳村真理の生い立ちは?中学時代から独自のファッションを貫いていた!」からの続き

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中学時代もこダサいブルマを勝手に作り直していた

終戦後、芳村さん一家は、疎開先の宮城県から東京に戻ったそうですが、家は焼け落ちてしまっていたそうで、家を借りていた人の蔵で、家族8人がギュウギュウになって暮らしたそうです。

そして、芳村さんは、東京の中学校に編入したそうですが、ここでも、入部したハンドボール部のユニフォームのブルマがダボッとしたシルエットで気に入らなかったという芳村さんは、勝手にショートパンツのように直して履いていたそうで、着ているものをかっこよく見せたいという気持ちはいつも持っていたのだそうです。

(ちなみに、当時、芳村さんが暮らしていた町は、新内流しの人がやってきたり、キセル管を掃除する羅宇屋(らうや)さんが回ってきたりして、江戸情緒があふれていたそうで、芳村さんは、お父さんから「末廣に行って落語を聞いておいで!」とお小遣いをもらったり、お稽古をつけに出かけていく着物姿のお母さんの背中を見てかっこいいと思って育ったそうです)

高校時代はストッキングの実演販売で有名デパートから引っ張りだこに

そんな芳村さんは、高校に進学すると、当時売り出されたばかりのストッキングの販売員のアルバイトをしたそうですが、

当時はまだ、女性が肌を露出するのに抵抗があった時代だったにもかかわらず、芳村さんは、実際に脚を見せながら実演販売し、女性の脚を美しく見せるストッキングの良さを訴え続けたそうで、その結果、ストッキングは空前のブームに。

芳村さんの名前も、「高島屋」「銀座松屋」など有名デパートに広まったそうで、争奪戦となるほど、芳村さんは引っ張りだことなったのだそうです。

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高校卒業後はモデル事務所「FMG」に入っていた

そんな芳村さんは、銀座の某デパートから、高校卒業後も働いて欲しいと言われたそうですが、その誘いを断ったそうで、21歳の時には、銀座の山野(愛子)美容会館内のモデルクラブ「FMG」に入ったそうです。

というのも、芳村さんは、

どうせなら誰もやってない仕事を

と、考えていたそうで、

そんなある時、直感的に、モデルが面白そうだと思い、モデルになろうとモデル事務所を探したところ、当時、銀座にはモデルクラブが二つあり、近い方の「FMG」に行ったのだそうです。

ちなみに、そこでは、「ここに名前と連絡先を書いてください」と言われただけで、面接もオーディションもなかったのだそうです。

また、芳村さんは、別のインタビューでは、

何かおもしろい仕事はないかな~と思って歩いていたところ、「モデル募集」という張り紙を見て、モデルって何をやるんだろう、ミス・ユニバースじゃ背が足りないしと思いつつ、中に入って話を聞いてみると、ヘアスタイルのモデルだった

とも、語っています。

「芳村真理が若い頃はヘアモデル⇒ファッションモデルだった!」に続く

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