高校時代には、当時売り出されたばかりのストッキングを実際に脚を見せながら実演販売してストッキングブームを巻き起こし、有名デパートから引っ張りだこになるも、高校卒業後は、誰もやってない仕事がしたいと、モデル事務所を訪ねていったという、芳村真理(よしむら まり)さんは、その後も、時代の流れに上手く乗り、あれよあれよと人気を博します。

「芳村真理は高校時代ストッキングブームを巻き起こしていた!」からの続き

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モデル事務所に行くと勝手にヘアモデルにされていた

銀座のモデルクラブ「FMG」を訪ねると、面接もオーディションもなく、言われるがままに名前と連絡先だけを書いて帰ったという芳村さんですが、それから何日かして電話がかかってきたそうで、呼び出された赤坂のビルに行くと、そこは美容室の事務所だったそうです。

すると、いろいろな髪形にされるほか、「この服を着てください」と言われ、言われるがままに着ると、どんどん写真を撮られたのだそうです。

(ヘアスタイルのモデルの仕事だったそうです)

ヘアモデルとして引っ張りだこに

すると、後日、新聞に、「日本ヘアデザイン協会の今年のルック」というタイトルで、自分の写真が掲載されていて、とてもびっくりしたそうですが、その後、全国からヘアモデルの依頼が来るようになったそうで、

芳村さんは、

時代に、ピッタリはまったんだと思う。戦争が終わって10年近く経って、やっと髪形を気にする余裕が出てきたんです。

そう。とにかくヘアモデルの仕事は星の数ほどやりましたよ。日本中に美容院ができた時期で、先生たちが海外から入ってくる技術やスタイルを一斉に勉強し始めた時期だった。

私は髪質が良くてね、毛が細いんだけど強かったから、需要があったんですよ(笑)。あるところに行くと短く切られて、またあるところでは明るく染められたり…。1日に何回も場所を変え、髪型を変えっていう日々でしたね。

と、語っています。

(頭の形がどんな髪型にもよく合ってやりやすい、とも言われたそうで、まさか、そんなことで褒められるとは思ってもいなかったそうです(笑))

ファッションモデルでもブレイク

こうして、芳村さんは、2年間、ヘアモデルをすると、その後はファッションモデルに転身するのですが、ファッションモデルとしては決して背は高くなかったそうですが(160センチ)、逆にそれが世間の女性たちの共感を得て、人気はうなぎのぼりとなり、

1950年代後半には、各デザイナーのショーや「週刊朝日」などの雑誌の表紙のグラビアを飾るなど、人気ファッションモデルとして活躍。

芳村さんは、当時はまだ一般的ではなかった、「ミニスカート」や「ビキニ」などを広め、ファッションリーダー的存在となり、女性たちの美意識に大きな影響を与えたのでした。

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芳村流オシャレになる方法とは

ちなみに、芳村さんは、

これまでのモデルは長身で8頭身だったけど、普通の体形のモデルが必要とされた時代の流れが来ました。

と、語りつつ、

私は最初のお仕事がモデルだったので、トップファッションを自分のものにするっていうのに慣れているかもしれないわね。

デザイナーが作る洋服っていうのは、だいたいコレクションで発表するためのものだから、自分が着たいものではないわけよね。

「この服を着て」と提示されたとき、一瞬、「わ!大変」と思うんだけれど、次の瞬間、「よし!着こなしてみよう」って、裾を上げてみたり襟を広げてみたり、肩をズラしたりしてみて、「よし!これで行こう」と、なんでも着てたんですよ。

普通の人は「私はこれ」って自分で選んじゃうでしょ? それだと、いつまで経ってもオシャレの幅は広がらない。トップのモードを「着なさい」って言われたほうがね、ちゃんと冒険できるものなのよ。

と、オシャレの幅を広げる方法についても語っています。

「芳村真理は若い頃「霧ある情事」で映画デビューもしていた!」に続く


カネボウ毛糸のポスターより。

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