1948年、舞台「鐘の鳴る丘」で子役デビューして、児童劇団に入って以来、70年以上に渡り、数多くのテレビドラマや映画に出演するほか、タレントとしても活躍している、毒蝮三太夫(どくまむし さんだゆう)さん。今回は、そんな毒蝮さんの生い立ちとお母さんについてご紹介します。
「毒蝮三太夫の本名は?芸名は立川談志が名付け親!」からの続き
少年時代は家に鍵をかける習慣がなかった
毒蝮さんは、大工のお父さん・正寅さんとお母さん・ひささんの間に3人兄弟(兄2人)の末っ子として、大阪住吉区で誕生すると、生後3ヶ月の時、東京市荏原区中延(現在の東京都品川区中延)の木造長屋に転居したそうですが、
(両親は、関東大震災で焼け出され、大阪に避難していたそうで、その避難先で毒蝮さんは誕生したのだそうです)
その木造長屋はというと、外から中が丸見えだったほか、鍵をかける習慣がなかったことから、近所のおばちゃんが路地に面した勝手口から勝手に家の中に入って来るなど、自由に出入りしていたそうで、
鍵をかけようものなら、
鍵はかけるんじゃないよ。盗人(ぬすっと)に取る物があると思われちゃうからさ
と、言われるなど、今では考えられない環境の中で育ったそうです(笑)
兄2人は異父兄弟で10歳以上年が離れていた
また、お兄さん2人とは異父兄弟だったそうですが(お母さんは、前の夫と死別して正寅さんとは再婚だったそうで、お兄さん2人はお母さんの連れ子だったそうです)、
10歳以上も年が離れていたことから、兄弟喧嘩をしたことも一緒に遊んだことも一度もなく、一人っ子のように育ったそうで、寂しかったそうです。
とはいえ、両親からもお兄さん2人からもとてもかわいがられて育ったそうです。
(左から)毒蝮さん、2番目のお兄さん、お母さんのひささん。
母親は自由気ままで家事が嫌いだった
ちなみに、毒蝮さんのお母さんは、芝で生まれ、神田で育った、生粋の江戸っ子で、明治生まれだったそうですが、一般的には、明治生まれの女性は、男性に従う、というのが当然だった時代において、お母さんは、自由気ままで、とても気が強く、すぐにお父さんに食ってかかっていたうえ、
料理は苦手、朝寝坊はする、掃除も洗濯もできればやりたくない、というタイプだったそうで、息子の毒蝮さんから見ても、お世辞にも良妻賢母とは言えない女性だったそうです(笑)
お母さんのひささんと毒蝮さん。
母親は情に厚く人の話を聞くのが上手だった
ただ、お母さんは、人一倍情に厚く、親身になって人の話を聞くのがとても上手だったことから、戦後、お母さんが開いた”しるこ屋”には、お昼になると、よく、近所にあった吉原の遊郭から女郎さんたちがお母さんに話を聞いてもらいに来ており、
(毒蝮さんによると、当時の女郎さんたちに幸せな生い立ちの人はいなかったそうですが、さらには、お母さんの”しるこ屋”は、”しるこ”といっても、小豆がほとんど入っておらず、サッカリン(砂糖の代用品)で甘みをつけただけの質素な”しるこ”だったことから、そんな店に来ている女郎さんは売れっ子でもなかっただろうとのこと)
お母さんは、そんな女郎さんたちの身の上話や相談を、「うん、うん」と親身になって聞き、時には、一緒に涙を流していたそうで、毒蝮さんは、子供心にも、話を聞くというのは、辛い人を救う力があるのだと、感じたのだそうです。
そして、そんなお母さんは、
人のお世話にならぬよう、人のお世話をするように
病気の人を見たら、自分の代わりに病気を身に受けてくれてるんだ、自分の不幸を代わりに背負ってくれてるんだと思うんだよ
というのが口癖だったそうで、
この二つの言葉は、今でも、毒蝮さんの座右の銘になっているのだそうです。
「毒蝮三太夫の父親も母親に負けず劣らず個性的だった!」に続く
お母さんのひささんと毒蝮さん。