5歳の時にお父さんを亡くし、さらには実家の石炭問屋が倒産したことで極貧生活となり、貧困から抜け出すため一家でブラジルへ移住するも、そこで待っていたのは、想像を絶する過酷な労働の日々だったという、アントニオ猪木(あんとにお いのき)さん。そんな中でも、やがて、砲丸投げで頭角を現し、プロレスラーの力道山さんにスカウトされるのですが・・・
「アントニオ猪木は少年時代ブラジルで奴隷労働を強いられていた!」からの続き
ブラジルの砲丸投げ大会で優勝
ブラジルでは、酷い奴隷労働を強いられていた猪木さんですが、そんな中、お兄さんが砲丸を買って来てくれたことから、それ以来、労働の合間に砲丸投げの練習をするようになったそうで、
やがては、コーヒー農園での1年半の労働契約も終わり、昼間は、高校に通って砲丸や円盤投げの練習、夜は青果市場で「かつぎ屋」と呼ばれる仕事をするようになったそうで、
1960年には、現地の陸上競技大会の砲丸投げに出場すると、見事優勝します。
(「かつぎ屋」とは、仲介人が市場で買った野菜をかついでトラックに載せるという仕事)
当時の猪木さん(中央)。
ブラジルで力道山からスカウトされる
すると、ちょうどその頃、遠征でブラジルを訪れていたプロレスラーの力道山さんが、猪木さんらしき人の噂を聞きつけ、あちこち探し回っていたそうで、
その話を聞いた、猪木さんが働く青果市場の社長が、猪木さんではないかとピンときたことから、猪木さんを力道山さんに紹介すると、
力道山さんは、猪木さんに、初対面でいきなり、
おい、裸になれ。
と、言ったそうで、
猪木さんが上半身裸になると、その肉体を見て納得し、
よし、日本へ行くぞ。
と、一言。
こうして、猪木さんは、力道山さんの迫力に飲まれるような形で、
よし、母国でプロレスというものに挑戦してやろう!
と、プロレスラーになることを決意したのだそうです。
猪木さん(左)と力道山さん(右)。
ジャイアント馬場と同日に「日本プロレス」に入門するも・・・
こうして、猪木さんは、力道山さんと共に日本に帰国し、「日本プロレス」に入団すると、同じ日に入門したジャイアント馬場さんやほかの若手と厳しいトレーニングに励み、
その5ヶ月後の1960年9月30日には、ジャイアント馬場さんと共にデビューしたのですが・・・
ジャイアント馬場さん(左)と猪木さん(右)。
(左から)ジャイアント馬場さん、猪木さん、力道山さん。
力道山からは壮絶な虐待を受けていた
そんな猪木さんを待っていたのは、プロレスラーとしての華々しい日々ではなく、力道山さんからの想像を絶する虐待の日々だったそうで、
例えばそれは、
- 力道山さんにクルーザーに乗せてもらうも、海の真ん中で、突然、「寛至(猪木さんの本名)、降りろ」と言われて、無理やり降ろされ、1時間半かけて海を泳ぎ東京に帰った
- 汽車で移動する時、疲れてうたた寝をしていると、火のついた葉巻を押し付けられた
- 飼い犬を番犬として教育する際の実験台にされた
- 暴力団関係者の前で、一升瓶を息継ぎせずにラッパ飲みさせられた
- ゴルフクラブで思いきり頭を殴られたり、トイレに行こうとしたところ、突然、背中をゴルフクラブで殴られるなど、理由も分からずよく殴られた
- 名前をちゃんと呼ばれたことはほとんどなく、大抵は「アゴ」「おいアゴ」と呼ばれ、機嫌が悪いと、「乞食野郎」「この移民のガキ、ブラジルへ追っ帰すぞ」と怒鳴られた
など、酷いものだったそうです。
力道山から受けた屈辱的な行為は今だに忘れられない
中でも、一番屈辱的だったのは、力道山さん見たさに大勢のファンが詰めかけていた巡業先の旅館で、力道山さんにリングシューズを履かせた際、
紐の掛け違いをしただけで、
なんだその履かせ方は、この移民野郎!
と、怒鳴られ、持っていた靴ベラをひったくられて、頬を思いきり打たれたことで、
人目が気になる年頃に、大勢の人たちが見ている前で恥をかかされた悔しさは、今だに忘れられないそうです。
同期のジャイアント馬場は付き人をせずに済んでいた
ちなみに、猪木さんと同じ日に入門し、同じ日にデビューしたジャイアント馬場さんは、元プロ野球選手で知名度もあったためか、力道山さんの付き人を経験することなく、デビュー後は、すぐにアメリカ遠征に出され、給料も出たそうですが、
そんな馬場さんでさえ、力道山さんのことは、
人間として何一つ魅力のない人だった
と、語っています。
「アントニオ猪木が若い頃はアメリカで武者修行していた!」に続く
アントニオ猪木さん(左)と力道山さん(右)。