父親の転勤に伴い、ニューヨークに移り、サラ・ローレンス大学に編入すると、ジュリアード音楽院の学生・一柳慧さんと知り合い、駆け落ち同然で結婚した、オノ・ヨーコさんは、一柳さんの影響を受け、前衛芸術家として活動を始めるのですが、結婚生活はうまくいかなかったようです。
「オノ・ヨーコの最初の夫は実験音楽の奇才・一柳慧!」からの続き
一柳慧との新婚生活は経済的に困窮していた
ニューヨークでは、両親の猛反対を押し切って、一柳慧(いちやなぎ とし)さんと結婚したオノさんですが、新婚生活は、マンハッタンのチャンバース通りにあるロフト付きのアパートの5階で、暖房設備はなく、家具もまばらという、困窮したものだったそうで、
オノさんは、グリニッチ・ヴィレッジにある「パラドックス」というレストランで、ウェイトレスとして働き(自分の作品を壁に飾らせてもらっていたそうです)、それでも収入が足りない時は、日本協会で、習字を教えたり、民謡について講義をしたり、時には事務仕事をすることもあったほか、日本文化を広めるという名目で、市の公立学校に派遣されたこともあったそうです。
(日本を代表する財閥のお嬢様だったオノさんは、この時、生まれて初めてお金に困る生活を経験したそうですが、同時に、幼い頃から身につけていた英語、習字、華道などの教養が、収入を得ることに役立ったのだそうです)
夫の一柳慧が単身帰国
そして、夫の一柳さんも、家計のため、カクテルバーでピアノを弾くアルバイトをしていたそうですが、それでも、経済的な不安は解消されず、結婚生活は日に日にすさんでいったそうで、やがて、一柳さんは、日本での再出発を望むようになり、オノさんを置いて、単身帰国。
(オノさんがある作家と恋仲になったことがきっかけだったとも)
オノさんは、その時のことを、
結婚を永久就職口と考えていなかった私は、やがて、従順な彼に欲求不満をぶつけるようになりました。一触即発の果てしない沈黙。胸に突き刺さる不快な言葉の投げ合い、そして突然涙ながらに仲直りする夜・・・
私たちはもはや手をつないでマンハッタンを散歩するような愛情ある夫婦ではなかった。家庭生活とは何かを創造していく人生は互いに相容れないものだったのです
夫を追って日本に帰るべきか、ここにとどまるべきか・・・27歳の私は葛藤と同時にニューヨークでの成功が間近に迫っているかもしれないという予感も感じていました
と、語っています。
帰国後は自殺を図り精神病院に入れられていた
そんな中、1962年、29歳の時、オノさんは、ニューヨークでのすさんだ生活を見かねた日本の家族により、日本に呼び戻されるのですが、帰国後、自殺を図り、東京の精神病院に入れられてしまいます。
(自殺を図った理由ははっきりしていませんが、一柳さんとの結婚生活がうまくいかなかったことに加え、一柳さんの足を引っ張っている、悪妻だという噂や中傷が飛び交うようになったことで、精神的に参ってしまったことが原因ではないかと言われています)
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