父親の転勤に伴い、ニューヨーク郊外のスカーズデールに移り住み、サラ・ローレンス大学に編入すると、詩と音楽を学ぶようになった、オノ・ヨーコさんですが、ほどなくして、ジュリアード音楽院の学生・一柳慧さんと出会うと、両親の猛反対を押し切って結婚し、前衛芸術家として活動するようになったといいます。

「オノ・ヨーコは幼少期から芸術教育を受けて育っていた!」からの続き

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最初の夫は音楽家・一柳慧

1953年、20歳の時、学習院大学を中退して、お父さんの赴任先であるニューヨークに移り、お嬢様学校として有名なサラ・ローレンス大学で、詩と音楽を学んでいたオノさんですが、

1956年、23歳の時には、ニューヨークのジュリアード音楽院の学生だった、 一柳慧(いちやなぎ とし)さんと知り合うと、両親の猛反対を押し切って、大学を中退し、駆け落ち同然に結婚。

その時のことについて、

オノさんは、

彼は私にとって初めての恋人でした。だけど両親は彼が無産階級の育ちだったから気に入らなかった。

結婚を猛反対され・・・私は大学からも家からも遠ざかるようになりました。サンローレンスを退学しマンハッタンのアパートで新婚生活を始めました

一柳さんは、

当時は、日本からニューヨークまで来る人というのは限られていたんです。どこか大きな会社の御曹司か、僕みたいな非常に貧乏な学生か(笑)

その頃、ニューヨークには、日本食のお店は1、2軒しかなくて、いつもの間にかみんな顔なじみになっていたんです。

当時、僕らはものすごく真面目だったから、敗戦した日本はこれからどういう道を歩んだらいいのか?もっと工業を発展させて欧米と匹敵する経済力をつけるべきか?

あるいはスイスのような観光立国としてやっていくべきかなんてディスカッションしていました。その中に彼女もいたわけです。当時はまだ学生で、いわゆるアーティストではありませんでした。

と、明かしています。

一柳慧は「実験音楽の奇才」と称される音楽家で「文化勲章」を受章

ここで、一柳さんを簡単にご紹介すると、一柳さんは、若い頃からピアノの才能を発揮し、青山学院高等部在学中の1949~1951年に、「毎日音楽コンクール」(現・日本音楽コンクール)で3年連続入賞(1949年には作曲部門で第1位)すると、1954年には、ニューヨークのジュリアード音楽院に留学しているのですが、


一柳慧さん。

この留学中に、実験音楽家・ジョン・ケージさんの講座に参加すると、ジョンさんの思想に大きく影響を受け、偶然性や図形楽譜による音楽活動を展開したそうで、

その後、一柳さんは、この前衛的な音楽活動で、日本を代表する作曲家・ピアニストとして活躍すると、後に、”実験音楽の奇才”と称されるようになり、2018年には、その功績を讃えられ、「文化勲章」を受章しています。

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一柳慧と結婚後は前衛芸術家として活動しNYで注目を集めるように

さておき、結婚後、オノさんは、そんな一柳さんの「実験音楽」の非凡さに惹かれ、また、一柳さんを通じて知り合った、実験音楽家・ジョン・ケージさんに強く影響を受け、自らも、前衛芸術家としての活動をスタートさせると、

(当時、ニューヨークでは、前衛芸術が隆盛を極めていたそうで、特に、ダウンタウンでは、「ビートニクス」という前衛芸術が流行っていたそうです)

やがて、一柳さんとともに、ニューヨークを拠点に活動する前衛芸術運動「フルサクス」の創始者・ジョージ・マチューナスさんらと、活動するようになっていったそうで、

床に置かれたキャンパスを観客が踏みつけることで完成する作品「踏まれるための絵画」(Painting To Be Stepped On)を発表するほか、カーネギー・ホールで前衛音楽「avant-garde music」のパフォーマンスを披露するなど、オノさんは、新鋭の女性アーティストとして、ニューヨークで徐々に注目を集めるようになっていったのでした。

「オノ・ヨーコが若い頃は自殺を図り精神病院に入れられていた!」に続く

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