「椿説弓張月」の白縫姫役では、原作兼演出の三島由紀夫さんに落胆されるも、一般的には好評を博した、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんは、その後、松竹から本格的に売り出されることになるのですが、単独はかなわず、コンビとして売り出されることになります。
「坂東玉三郎は三島由紀夫に女方を高く評価されていた!」からの続き
松竹からも本格的に売り出されることに
それまで、松竹では、ぞんざいな扱いを受けていた坂東さんですが、(まだブレイクとまではいかなかったものの)国立劇場での「椿説弓張月」(1969年11月)で成功したことから、
1970年に入ると、松竹は、サディスティックな倒錯美で注目を集めていた坂東さんを、このまま国立劇場に出演させていたのでは宝の持ち腐れだと考え、本腰を入れて売り出そうと、歌舞伎座をはじめとする、松竹系の劇場へ起用することを決定したそうです。
(文豪・三島由紀夫さんが坂東さんを気に入っていたため、松竹も坂東さんを売り出しやすくなったそうです)
ただ、松竹が持っている劇場は、すでにどこもスケジュールが埋まっていて予定をずらすことができず、仮にずらすことができたとしても、(松竹では格の低い)坂東さん主演の公演で、共演してくれる役者などいるはずがなく、坂東さんを歌舞伎座に出演させれば話題になり、お客が入るだろうことが分かっていても、そう簡単にはいかなかったそうです。
市川海老蔵との「海老玉コンビ」として売り出される
そこで、松竹は、最終的には、坂東さんを単独主演ではなく、”歌舞伎界のプリンス”と呼ばれていた市川海老蔵(後の12代目市川團十郎)さんの相手役に起用するという形を取り(それが、坂東さんを起用する口実にもなったそうです)、”海老玉コンビとして売り出すことにしたそうで、
松竹は、9月1日の初日の”海老玉”公演に向け、話題作りとして、8月30日の日曜日、銀座三越とタイアップして、三越前の路上に「歌舞伎茶屋」を特設すると、稽古の合間に、この茶屋に坂東さんと海老蔵さんを行かせ、
集まってきた女性ファンへの対応はもちろんのこと、マスコミも呼んで取材をさせ、記事にさせて話題作りをしたのでした。
(この時の二人について、「松竹八十年史」には、「人気上昇中の海老蔵、玉三郎」「女性ファンを集めた」などと記録されているそうです)
市川海老蔵との「海老玊コンビ」で人気を博す
こうして、1970年9月1日、歌舞伎座で、若手主体の公演「新秋大歌舞伎」が上演されると、養父・守田勘弥さんが上置(座長)となり、 坂東さんと市川海老蔵さんのほか、市村竹之丞(後の5代目中村富十郎)さん、市川猿之助さん、澤村田之助さん、と若手が出演し、
(歌舞伎座の通常の興行では、脇役・端役でしか舞台に立てない若い役者ばかりだったそうで、坂東さんはそんな若手の中でも一番若かったそうです)
坂東さんは「鳥辺山心中」でお染役、「神霊矢口渡」で傾城うてな役、「新門辰五郎」でお市役、「鳴神」で絶間姫役を演じ、「鳥辺山心中」と「鳴神」では 海老蔵さんと共演すると、”海老玉コンビとして人気を博したのでした。
(ただ、劇評は、人気とは裏腹に、二人とも「まだこれから」と書かれ、それほど高くはなかったそうです)
「坂東玉三郎は嫉妬を避ける為ブレイクを抑制されていた!」に続く