1957年、7歳の時、「坂東喜の字」として初舞台に立つと、1964年、14歳の時には、五代目坂東玉三郎を襲名し、以降、「桜姫東文章」「鳴神」「鷺娘」「壇浦兜軍記」「天守物語」などに出演し、女方の第一人者として人気を博した、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さん。

今回は、そんな坂東玉三郎さんの、若い頃(16歳の時「桜姫東文章」で白菊丸役~19歳の時「椿説弓張月」で白縫姫役)の経歴を時系列でご紹介します。

坂東玉三郎

「坂東玉三郎の生い立ちは?幼少期に小児麻痺も7歳で初舞台!14歳で五代目襲名!」からの続き

Sponsored Link

坂東玉三郎は16歳の時「桜姫東文章」の白菊丸で三島由紀夫らを魅了していた

1964年6月、14歳の時に、五代目坂東玉三郎を襲名し、14代目守田勘彌さんの芸養子になった坂東玉三郎さんは、以後、歌舞伎座、東横ホール、新橋演舞場でキャリアを積むと、

1966年には、国立劇場開場で養父・14代目守田勘彌さんが主役級に抜擢されたことから、その舞台に同行するようになっているのですが、

1967年3月には、国立劇場の「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」で白菊丸を演じると、冒頭数分で、清玄(養父・守田勘彌さん)と心中して退場する端役ながら、

その麗しい姿が、主演の桜姫を務めた名女方・中村雀右衛門さん以上に強烈な印象を残し、作家の三島由紀夫さんと堂本正樹さんを魅了したそうで、

この時、坂東玉三郎さんは、まだ無名だったため、三島由紀夫さんは、誰かとすぐには把握できず、一緒にいた関係者に、

一体、あれは誰だろう?

と、尋ねていたといいます。

坂東玉三郎は17歳の時に初対面で三島由紀夫を緊張させていた

また、三島由紀夫さんは、坂東玉三郎の白菊丸に一目で魅了されていたそうですが、

それから3ヶ月後の1967年6月、坂東玉三郎さんが、「天下茶屋の敵討(かたきうち)」の上演を客席で観ていると、その隣の席には、三島由紀夫さんが座っていたことから、

幕間には、お母さんが三島由紀夫さんを紹介してくれるだろうと思っていたそうですが・・・

なんと、三島由紀夫さんは、坂東玉三郎さんの美しさに緊張して、隣に座っていることができなくなっていたそうで、幕間になる前に、席を離れていたといいます。

坂東玉三郎は「桜姫東文章」の白菊丸の演技で、三島由紀夫に過去の失敗原因を悟らせていた

また、この「桜姫東文章」は、1959年と1960年に、三島由紀夫さんが中村歌右衛門さん主演で上演するも、不評に終わり、三島由紀夫さんは、長い間、その原因を分からずにいたそうですが、

(「桜姫東文章」の初演は、文化14年(1817年)3月なのですが、その後、異なる歌舞伎役者によって、再演されていたそうです)

三島由紀夫さんは、今回の「桜姫東文章」での坂東玉三郎さんの白菊丸を見て、自身が、もともと原作が約10時間だった上演時間を3時間弱に縮め、白菊丸の場面をカットしていたことが、失敗の主な原因だったと悟ったといいます。

(今回の「桜姫東文章」は、150年ぶりに全幕通しで復活上演されたそうです)

また、堂本正樹さんも白菊丸の場面の重要性を高く評価し、守田勘彌さんと坂東玉三郎さんの1967年版「桜姫東文章」を称賛しています。

坂東玉三郎は16歳の時に三島由紀夫らが推したことで著名人に注目されていた

そんな坂東玉三郎さんは、三島由紀夫さんと堂本正樹さんが周囲に強く推したことで、著名人に一気に注目されたそうで、

三島由紀夫さんと堂本正樹さんに、

ぜひ見るべきだ

と、熱心に勧められた、作家の澁澤龍彦さんも、

さっそく、国立劇場で上演中だった「桜姫東文章」を観ると、たちまち、坂東玉三郎さんの美しさに魅了されたといいます。

坂東玉三郎は著名人には注目されるも一般的にはまだ無名だった

とはいえ、この時点では、三島由紀夫さん、澁澤龍彦さん、堂本正樹さんなどの、作家や著名人に注目されていただけで、

一般的には、まだ、坂東玉三郎さんは脚光を浴びておらず、無名の存在だったそうです。

坂東玉三郎は17歳の時「曾我綉侠御所染」の時鳥役で一躍脚光を浴びていた

しかし、1967年12月、17歳の時、「曾我綉侠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)」で奥州の大名・浅間巴之丞の愛妾・時鳥という役に抜擢されると、

(時鳥は、母・百合の方に妬まれて、毒を盛られてなぶり殺しにされ、美しい杜若の咲き乱れる池に沈められるという凄惨な運命をたどる役柄)


坂東玉三郎さんは、この役で妖艶な美しさを存分に発揮し、観客の注目を一気に浴びたそうで、

この成功を機に、可憐な娘役から、宿命や死を背負った”非業の女方”へと転換していったのでした。

坂東玉三郎は梨園出身でなかったことから積極的に売り出されていなかった

実は、松竹側が、歌舞伎界の幹部であった中村歌右衛門さんらに配慮して、梨園の出身でない坂東玉三郎さんは、積極的に売り出されなかったそうですが、

そんな中、坂東玉三郎さんが、時鳥役に抜擢された背景には、東京宝塚劇場(東宝)から国立劇場の芸能部に移籍してきた、伊藤信夫さんという人の存在があったそうで、

伊藤信夫さんは、坂東玉三郎さんが知らないところで、坂東玉三郎さんを国立劇場のスターにしようと計画していたのだそうです。


Sponsored Link

坂東玉三郎は19歳の時に三島由紀夫作・演出の「椿説弓張月」で白縫姫役に抜擢され一躍人気を博していた

さておき、坂東玉三郎さんは、「曾我綉侠御所染」で時鳥役を見事に演じ注目を集めるも、すぐにブレイクとはならなかったそうですが、

1969年3月、「南総里見八犬伝」に浜路役で出演する中、

伊藤信夫さんが、

坂東玉三郎さんを売り出したい

と、語った言葉を受け、

三島由紀夫さんが、

いい役者になる。僕も応援する

と、賛同し、1969年11月、自身の作・演出による新作歌舞伎「椿説弓張月」で、坂東玉三郎さんを白縫姫役に抜擢すると、

坂東玉三郎さんは、その初々しく印象的な演技で一躍、人気を博したのでした。

とはいえ、坂東玉三郎さんの白縫姫役は、もともと、三島由紀夫さんが希望した配役ではなかったそうで、三島由紀夫さんは、坂東玉三郎さんが演じた白縫姫役に不満を抱いていたといいます。

それでも、三島由紀夫さんは、坂東玉三郎さんの女方を高く評価していたそうで、これからの歌舞伎界を背負う存在として、大きな期待を寄せたのだそうです。

「【画像】坂東玉三郎の若い頃は海老玉や孝玉で人気!代表作ほか経歴は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link