1970年9月1日、松竹により、歌舞伎座での公演「新秋大歌舞伎」で、市川海老蔵(後の12代目市川團十郎)さんと共に売り出されると、海老蔵さんとの共演が”海老玊コンビ”と話題になった、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんですが、その後は、周囲からの妬みや恨みを買うことを避けるため、意図的に、再び、脇役に戻ったり、主役に戻ったりを交互に繰り返したといいます。

「坂東玉三郎は市川海老蔵(12代市川團十郎)と海老玉コンビで人気を博していた!」からの続き

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主役と脇役を交互に演じていた

1970年9月1日、歌舞伎座での公演「新秋大歌舞伎」では、市川海老蔵(後の12代目市川團十郎)さんとの共演で人気を博した坂東さんですが、9月25日に公演が終わると、9月29日から10月25日までの、長崎、鹿児島、宮崎、熊本、博多、大牟田への地方巡業では、再び、脇役に戻ります。

そして、同年11月、国立劇場での公演「大老」では、主人公・井伊直弼の正室の昌子の方役に抜擢されるのですが、12月、東横劇場の「仮名手本忠臣蔵」では再び脇役となり、以降、しばらくは、脇役を務めています。

養父・守田勘弥が坂東玉三郎を守るためブレイクを抑制していた

というのも、坂東さんがスターダムへ駆け上ると、周囲からの妬(ねた)みや嫉(そね)みなどで、坂東さんが潰されるだろうと恐れた師匠で養父の守田勘弥さんが、主役の次には脇役に戻し、また脇役、その次には、そっと主役というふうに、意図的に調整し、坂東さんのブレイクを抑制していたのでした。

「ゴールデン・アロー賞演劇賞」「芸術選奨文部大臣新人賞」を受賞

ただ、坂東さんは、歌舞伎座ではまだ脇役だったにもかかわらず、1971年1月には、前年の演技が評価され、「ゴールデン・アロー賞演劇賞」を、3月には、「芸術選奨文部大臣新人賞」を受賞するなど、劇評家からもその演技が高く評価されるようになっていきます。

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それでも「玉三郎ブーム」が巻き起こっていた

そして、同年、小説家の円地文子さん、作家で歌舞伎評論家の戸板康二さん、編集者で随筆家の車谷弘さんとの座談会に、師匠で養父の勘弥さんとともに招かれ、「銀座百点」(1971年3月号)に、「玉三郎ブーム」とのタイトルで、その様子が掲載されると、

(とはいえ、坂東さんの発言は、「はい」や、身長を聞かれ「173センチです」と答えるくらいだったそうで、勘弥さんが、人気が出て浮かれているような印象を与えてはいけないと、戒めていたそうです)

坂東さんの人気は、もう抑えることができなくなり、以降、坂東さんは、松竹系の劇場への出演が増えていったのでした。

(松竹が、坂東さんを、歌舞伎座には出せなくても、他社である国立劇場に貸すのはもったいないと判断したからだそうです)

「坂東玉三郎は片岡孝夫(現15代片岡仁左衛門)と「孝・玉」コンビで大ブレイク!」に続く

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