中学生の頃、映画に夢中になり、雑誌「映画之友」「友の会」の会員になると、編集長だった淀川長治さんと知り合い、一流を見分ける教えを受けたという、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、その後何十年経っても忘れられない言葉があったといいます。

「永六輔は中学の頃から淀川長治に師事していた!」からの続き

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淀川長治から言われた忘れられない言葉とは?

ある年の4月10日、永さんが、言い出しっぺとなり、(誕生日のお祝いとして)大先輩の淀川さんにご馳走しようと、淀川さんの家を訪ねたことがあったそうですが、

(永さんと淀川さんは、イラストレーターの和田誠さんと共に誕生日が同じ4月10日で、「四月一〇日の会」というのを結成し、映画の話をよくしていたそうです)

淀川さんには、

誕生日に一番大変だったのは、産んでくれたお母さんでしょ。だから、誕生日というのはお母さんに感謝する日なの。ごちそうする相手はお母さんです。

もし亡くなって誘えないなら、お墓参りに行きなさい。そんなことも分からない奴らと、食事なんかしたくない

と、真剣に叱られたのだそうです。

淀川長治は1日1日を大切に生きていた

また、淀川さんは、朝、目覚めると、まず、床の中でその日の日付を言い、

今日という日は、一年に一回しかない。今年の今日は一生のうち一回しかない

と、(1日1日を大切にするという意味で)自分に言い聞かせていたそうですが、

永さんは、そんな淀川さんを、著書「永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」」で、

その心が審美眼に?がっていたのかもしれません。さらに、どんなにつまらない映画でも、光るものを見つけて褒める優しい目を培ったともいえます。

淀川さんは映画の解説や評論や編集などをこなし、一口でその肩書きを括れる人ではありません。好奇心を全開にして、生きることを愛した、映画好きのおじさん。そして話術の名人としても一流でした。

と、語っています。


永六輔の伝言 僕が愛した「芸と反骨」

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高校生の時には「松竹歌劇団」(SDK)のレビューに熱中していた

さておき、その後、永さんは、勉強よりアルバイトが優先になり、アイスクリーム売り、宝くじ売り、三越劇場の照明助手ほか、人形町の松坂屋履物店では、下駄を花街の葭町(よしちょう)という所の見番(けんばん)に届けたりと、様々なアルバイトをしたそうですが、

(※見番とは、芸者の手配等を行う花街の中心施設のこと)

1949年、早稲田高校に入学すると、映画研究部を立ち上げ、学校をさぼって、実家の裏にあった国際劇場を拠点として活動していた「松竹歌劇団」(SDK)のレビューにしょっちゅう通って、舞台装置を描き写すほどに、映画に熱中したのだそうです。

(永さんは、子供の頃から、幼稚園や学校に行く時、「SDK」の人たちとすれ違っていたことから、子供心にも「SDK」に親近感を持っていたのだそうです)

「永六輔は三木鶏郎の会社「冗談工房」の社長を務めていた!」に続く

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