三木鶏郎(トリロー)さんのNHKラジオ番組「日曜娯楽版」の「冗談音楽」というコーナーでコントが採用されると、(大人が丸1日働いた収入が240円の時代に)コント1本につき300円もくれたことから、コントの投稿を続けていたという、永六輔(えい ろくすけ)さんは、やがて、三木さんから声をかけられたといいます。
「永六輔が淀川長治から言われた忘れられない言葉とは?」からの続き
早稲田大学に進学するとすぐに「トリロー文芸部」のスタッフになっていた
ラジオ番組「日曜娯楽版」へコントの投稿をし、しばしば採用されていた永さんは、やがて、ラジオ局の担当の人に名前を覚えてもらうようになったそうで、高校生の時には、「日曜娯楽版」を手掛けていた三木鶏郎さんに、「トリロー文芸部」に来ないかと誘われたそうです。
ただ、三木さんは、永さんがまだ高校生だと知ると、(文芸部には)高校を卒業してから来るように言われたそうで、高校卒業後の1952年、19歳の時、早稲田大学に進学してから、正式に、東京・市ヶ谷にあった「トリロー文芸部」のスタッフとして採用されたそうです。
(永さんは、高校の時には、既にコントの台本書きがアルバイトの域を越えて、売れっ子のコント作家となっており、高校卒業後は、ほぼ「トリロー文芸部」に就職が決まっている状態だったそうですが、念のため、将来のことを考え、早稲田大学の第二文学部(夜間)史学科を受験したところ、合格したのだそうです)
早稲田大学では中村八大と共にいつも学費滞納で掲示板に張り出されていた
そんな永さんは、仕事で忙しく、ほとんど大学に行くことができなかったそうですが、お金もなく、学費も支払っていなかったそうで、しょっちゅう呼び出され、教務室のところに、「右の者、月謝未払いにつき」と、掲示板にずーっと名前が貼り出されていたそうです。
ちなみに、永さんの名前の隣には、すでに有名だった、作曲家の中村八大さんの名前も貼り出されていたそうですが、すでにスターだった中村さんは、ボストンバッグに現金を入れて持ち歩くほどのお金持ちだったにもかかわらず、払いに行ってなかったのだそうです(笑)
(当時、早稲田大学には、俳句研究会には大橋巨泉さん、短歌研究会には寺山修司さんもいたそうです)
三木鶏郎に言われ有限会社「冗談工房」の社長に就任
結局、その後、永さんは、入学してから1年も経たないうちに早稲田大学を中退し、本格的に放送の仕事に携わると、夢中でコントを書き続けたそうですが、
翌年の1953年、20歳の時、テレビ放送が開始し、NHKに続いて民放も数年の間に次々と開局すると、「トリロー文芸部」には、民間放送の番組制作やCM制作の依頼が殺到したそうで、抱える構成作家の人数も増えたことから、1956年4月には、三木さんが有限会社「冗談工房」を設立すると、三木さんから、突然、社長をやれと言われたそうで、
永さんは、びっくりして、
経営なんて、できません
と、すぐに断ったそうですが、
三木さんは、
いいんだ。 いいんだ
と、鷹揚(おうよう)にうなずいて笑っていたため、なぜか断りきれず、社長になることを引き受けたのだそうです。
ちなみに、三木さんは監査役になったそうですが、経理兼専務は野坂昭如さん、常務は宇野誠一郎さんほか、スタッフはほとんどが20代だったそうです。
(永さんのアイディアで、スタッフはみな、派手なポロシャツにジーンズという、バンドボーイ風のスタイルだったそうです)
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