1961年10月、坂本九さんに作詞した「上を向いて歩こう」が大ヒットとなった、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、実は、坂本さんの歌う「上を向いて歩こう」を初めて聴いた時、永さんは、坂本さんの独特の歌い方に激怒していたといいます。
「永六輔が「上を向いて歩こう」の歌詞に込めた意味とは?」からの続き
坂本九とは「第3回中村八大リサイタル」で初めて会っていた
坂本九さんは、1961年7月21日、東京・大手町の産経ホールで開催された「第3回中村八大リサイタル」で、初めて、「上を向いて歩こう」をお披露目しているのですが、
このリサイタルの舞台監督と務めていた永さんは、この日、初めて坂本さんと会ったそうで、
坂本さんからは、舞台袖で、
初めまして、坂本九と申します。『上を向いて歩こう』を歌わせていただきます
と、オズオズとした態度で挨拶されていたそうです。
坂本九の「上を向いて歩こう」の歌い方は独特だった
そして、その直後、坂本さんは、舞台に出ていったのですが・・・
会場の舞台袖からステージを見つめていた永さんは、坂本さんの歌い方を聴き、思わず耳を疑ったといいます。
というのも、坂本さんは、
ウヘッフォムフフィテ アハルコフホフホフホフ(上を向いて歩こう)
ナハミヒダハガハ コッボッレッヘェナハイヨフホフホフニ(涙がこぼれないように)
と、歌い始めたというのです。
(坂本さんは、満面の笑みで歌唱するも、緊張のあまり直立不動で、しかも足がガタガタと震えていたそうです)
坂本九の「上を向いて歩こう」の歌い方に激怒していた
これに、永さんは、坂本さんがふざけていると思い、
なんだ この歌は?
と、激怒したそうで、
すぐに、「上を向いて歩こう」を作曲した中村八大さんに駆け寄り、
何なんですか、あれは!? もっと歌のうまい人に歌ってほしい。日本語を大切に歌ってほしい
と、訴えたそうですが、
中村さんはというと、
あれでいいんだよ。あれがいいんだ
と、全く取り合ってくれなかったそうで、
永さんは、後に、
正直、最初に九の『上を向いて歩こう』を聴いたとき、歌が下手だと思いました。ロカビリー好きの10代でした。9歳年下で世代も違うし、僕はロカビリーが嫌いだった。 ただ、八大さんが九に歌わせると決めていたんです。
と、語っています。
(永さんは、坂本さん本人にも、「何だその歌い方は!」「これでは絶対ヒットしない」と、激怒したとも言われています)
作曲家の中村八大はロカビリー歌手の坂本九に目をつけていた
実は、中村さんは、もともと、「シックス・ジョーズ」というバンドで超売れっ子だったのですが、やがて、自信の音楽に疑問を感じるようになったそうで、そんな中、進駐軍のキャンプを回っていた時に、入手ルートを持っているプレイヤーに勧められ、ほんの好奇心からヒロポンに手を出してしまい、まもなく、ヒロポン中毒に陥り、ひどい禁断症状に自殺を考えたそうですが、
(※ヒロポンとは、戦争中、戦意高揚の為に軍部が兵士に配給していた覚醒剤で、終戦後、大量の在庫が市中に出回り、薬局で強壮剤として売られていたそうです)
そんな中、自分には音楽があると、必死にヒロポン中毒から脱し、以来、”音楽の自由”に限りない解放感を感じたそうで、この「第3回中村八大リサイタル」は、ジャズ、クラシック、ポップス、ロカビリーなど区別せず、自分の能力を最大限に発揮するための企画だったそうです。
また、中村さんは、自身が音楽を担当した低予算のロカビリー映画の出演者の1人だった坂本さんに、密かに目をつけていたのだそうです。
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