坂本九さんには、単なる流行歌手で終わって欲しくないとの思いから、厳しい態度で接し続けたという、永六輔(えい ろくすけ)さんですが、1985年8月12日、坂本さんは、「日本航空123便」の墜落事故により、帰らぬ人となってしまいます。
「永六輔は坂本九がスターになった後も厳しい態度で接していた!」からの続き
坂本九が「日本航空123便」の墜落事故で死去
1985年8月、中村八大さんとレコード発売コンサートを小劇場「ジァン・ジァン」で行った際には、坂本九さんが、自らチケットを買って、立ち見客の一人として来てくれ、言葉では説明できないほど嬉しかったという永さんですが、
その5日後の1985年8月12日には、坂本さんは、「日本航空123便」の墜落事故により、43歳という若さで他界。
永さんは、この日、自宅でこの事故を知り、夜中、慌てて、坂本さんの家に駆けつけたそうです。
(永さんは、坂本さんの新分野開拓のため、また詞を書きたいと思っていた矢先の坂本さんの死に、悔しい気持ちでいっぱいだったそうです)
「日本航空123便墜落事故」は単独機で史上最悪の死者数を出していた
ちなみに、この飛行機事故は、「日本航空123便墜落事故」と言われており、1985年8月12日午後6時12分、日本航空123便(ボーイング式747SR-100型JA8119)は、大阪・伊丹空港に向けて東京・羽田空港から離陸すると、
午後6時25分頃、伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる直前に操縦不能となり、午後6時56分頃、群馬県多野郡上野村山中に墜落。
乗客乗員524名のうち、520名が死亡する(生存者は4名)という、単独機で世界史上最悪の死者数を出しました。
坂本九の慰霊のため飛行機が墜落した御巣鷹山に登っていた
その後、永さんは、この飛行機事故への怒りや悲しみが消えないまま、慰霊のため、飛行機が墜落した御巣鷹山に登り、坂本さんの遺体が発見されたという場所まで行ったそうですが、
そこには、小さな墓標が建てられていたそうで、その墓標にお酒をかけながら、障害を持つ子供たちがどれほど坂本さんの死を悲しんでいたかということを坂本さんに伝えたそうです。
(坂本さんは、生前、北海道だけで放送されていた「サンデー九」という番組で、障害者の問題に取り組んでおり、永さんは、そのことに尊敬の念を抱いていたそうです)
坂本九の一周忌で挨拶
そして、坂本さんの一周忌の法事の際には、
生前、九は僕のことを煙たがっていたようです。でも、永さんは煙たい人だけど、煙たい人がいるってことは大事なことなんだ、とも言っていたらしい。
だから僕は九の墓前にいつも、たっぷりと線香を上げます。九は今でも煙たがっているはずです
と、挨拶したそうですが、会場は笑いに包まれたそうで、
(坂本さんの奥さんも笑ってくれたそうです)
坂本さんの命を奪った飛行機事故への怒りや悲しみは消えないながら、ほんの少しだけ、心が休まったのだそうです。
東日本大震災の被災地ではいつも「上を向いて歩こう」を歌っていた
また、永さんは、その後、2011年3月11日に起こった東日本大震災が起こると、被災地を何度も訪ねたそうで、その集まりの最後には、「上を向いて歩こう」を歌って解散することが多かったそうですが、
ある時、集まりに参加したうちの一人が、手を挙げて、
〝ひとりぼっちの夜〟とは、歌いたくない
と、訴えたそうで、
永さんは、流行歌は、その時その時の人々の心に添って歌うものだと思っていたことから、すぐに賛成したそうですが、だからこそ、余計に、坂本さんの新しい歌を聴きたかったと、残念で仕方がなかったそうです。
「上を向いて歩こう」は世界中の人々に歌い継がれているスタンダード・ナンバー
そんな永さんは、1970年代後半から「パーキンソン病」を患っていたそうで、リハビリの際、病院で歩行訓練をしていると、
海外出身の介護士から、
日本には歩くとき、いい歌があるでしょ。『上を向いて歩こう』。 歌いながら、歩きましょうね
と、言われたそうですが、
つい、
そんな歌、知らない
と、答えてしまったそうです。
ただ、その後、この話を担当医にしたところ、
担当医からは、
噓は、いけませんね
と、笑われたそうで、
次に、その介護士に会った時には、
実は・・・あの歌詞、僕がつくったんだよ
と、伝えたそうですが・・・
介護士は、
またまた、噓言って
と、大笑いし、相手にしてくれなかったのだそうです。
ちなみに、永さんは、著書に、
(作曲をした中村)八大さんは、心からみんなで歌える歌が作りたいとよく言っていました。『上を向いて歩こう』は、そういう意味でも世界中の人々に口ずさんでもらえる、スタンダード・ナンバーといえます。
と、綴っています。