「農地開放」で先祖代々の土地をほとんど失い、残った土地で母親とともに慣れない農作業をしながら、お父さんの復員を待っていたという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、「農地開放」により、地主と小作人の立場が逆転し、イジメや嫌がらせに遭うことに。そんな中、先生に「根アカ」の精神を教わり、勇気づけられたといいます。
「財津一郎は少年時代「農地開放」で先祖代々の土地を失っていた!」からの続き
「農地開放」で「地主の子」とイジメられていた
「農地開放」で先祖代々の土地を失ってしまったという財津さんですが、地主でなくなったことで、それまでの、地主と小作人の立場が逆転したそうで、
やっとの思いで日々の暮らしをしていたにもかかわらず、クラスメートからは、「地主の子」と言われて、不当な嫌がらせやイジメに遭ったそうで、お母さんが苦労して集めた学校の月謝を取り上げられたり、意味もなく後ろから体当たりされ、財津さんは、すっかり、暗い性格になってしまったそうです。
(※「農地開放」とは、GHQの指揮の下、1947年、政府が地主の土地を強制的にタダ同然で買い上げ、耕作していた小作人に売り渡した政策)
阿蘇農業高校の先生に「根アカ」の精神を教えられ勇気づけられる
ただ、そんなある日、通っていた阿蘇農業高校の高橋先生に麦踏みに誘われて、近くの学校田に行き、二人で麦踏みをしていると、
高橋先生は、踏みつけられ、ねじ曲がった麦の前に立ち、
おい、こん麦ば見ろ。折れんばかりだが、また、立ち上がるとぞ。持ち直した麦が一番よか麦とぞ
踏まれることでさらに強い麦になりなさい。耐えて強くなった後に、必ず勝負の時が来る。今日から根アカに生きるとぞ。
(いじめるものには何の実りもない。しかし、君は、この麦と同じく、はい上がり、立派な実をつける。今は、君の勝負の時ではない。近い将来が勝負だ。そのために、財津君、ネアカになれ。という意味)
と、言ってくれたそうで、
財津さんは、涙が止まらなかったそうです。
そして、それ以来、「ネアカの精神」で生きると自身に誓ったのだそうです。
阿蘇農業高校の先生の言葉には重みがあった
ちなみに、高橋先生は、宮沢賢治を愛読するような穏やかな人だったそうですが、満州で戦争を体験するなど、苦労人だったそうで、
だからこそ、財津さんは、先生の言葉に重みを感じたそうで、以来、先生の言葉を胸に刻み、生きてきたのだそうです。
(財津さんによると、「根アカ」というのは、明るい、華やか、という意味ではなく、ピンチの時こそ志を持て、ピンチに立たされた時の経験こそ、必ず人生の財産になるという意味なのだそうです)
「財津一郎が高校の時は合唱団の歌声に魅了され合唱に夢中になっていた!」に続く