終戦後、安否の分からないお父さんの復員を待ちながら、極貧生活を耐え忍んでいたという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんは、その後、財津家の土地がある阿蘇市に移住するも、先祖代々受け継いできた土地は、「農地開放」でほとんどなくなってしまい、わずかに残った土地での慣れない農作業を余儀なくされたといいます。

「財津一郎の少年時代が悲惨過ぎる!」からの続き

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「農地開放」で先祖代々の土地を失っていた

終戦から約2年過ぎた1947年頃、財津さん一家は、お父さんの復員を待つため、財津家が所有する土地がある阿蘇郡黒川村(阿蘇市)に熊本市から移住したそうですが(阿蘇農業学校に転校)、

財津家は、戦後の「農地開放」で代々の土地を失ってしまったそうで、お父さんが死んでいるのか生きているのかも分からない状態の中、必ず生きて帰ってくると信じ、残った土地(約45アールほど)で農作業をしながら、お父さんがいつ帰って来てもいいように、準備したそうです。

(※「農地開放」とは、GHQの指揮の下、1947年、政府が地主の土地を強制的にタダ同然で買い上げ、耕作していた小作人に売り渡した政策)

母親が農作業中に突然大声で泣き出す

ただ、もともと、大地主で、アメリカ文学や音楽が好きだった、お嬢様育ちのお母さんは、農業はまったくの素人だったことから、田んぼをうまく耕せるはずもなく、財津家の水田の稲だけがうまく育たなかったそうで、

そんなある日のこと、財津さんは、いつものように、お母さんと、一生懸命、水田の草刈り作業をしていたそうですが、

(刈り取った雑草をぎゅっと田んぼにねじ込んで土に踏み込み、肥料にしていたそうですが、雑草はすぐに浮いてきたそうで、手作業だったこともあり、大変な作業だったそうです)

1メートルほど先にいたお母さんの手がパッと止まると、その瞬間、お母さんは、いきなり空を仰ぎながら大きな声で泣き出したのだそうです。

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母親は夫の安否が分からない不安の中6人の子供を育てていた

それは、阿蘇中に響き渡るほどの大きな声だったそうで、財津さんは、それまで、そんなお母さんを見たことがなく、驚いたそうですが、声をかけることができず、お母さんが泣き止むのを、ただただ、待つことしかできなかったのだそうです。

ただ、それから数分ほど経つと、お母さんは、何事もなかったかのように、再び、黙々と作業を再開したそうで、

財津さんは、その時のことを、著書「聞いてチョウダイ 根アカ人生」で、

今振り返れば、父の生存も分からない中、6人の子どもを育てるのは、どれだけ大変だったでしょうか。
母は計り知れぬ不安の中、私たちを育ててくれていたんですね。母があんな姿を見せたのは、後にも先にもありませんでした。

と、綴っています。

(お母さんが仰いだ空は皮肉なことに、晴天で美しかったそうです)

「財津一郎の「根アカ」はイジメられていた時に先生から教わったものだった!」に続く


聞いてチョウダイ 根アカ人生

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