「吉本新喜劇」の舞台や時代劇風人気コメディ番組「てなもんや三度笠」で、コメディアンとして成功を収めるも、もともと、歌と演劇をしていた、財津一郎(ざいつ いちろう)さんは、やがて、東京でブロードウェイミュージカルが上演されると、演劇に戻りたくなり、「吉本興業」に退職願を出そうとしたそうですが・・・
「財津一郎は藤田まことから「受けの芝居」を学んでいた!」からの続き
ブロードウェイミュージカルが上演されると東京に戻りたくなる
財津さんは、大阪での生活には刺激を感じていたそうですが、やがて、東京でブロードウェイミュージカルが上演されるようになると、
日本で本場アメリカのブロードウェイミュージカルをやりだしたのか
と、居ても立っても居られなくなり、だんだん、東京に戻りたい、という気持ちが芽生えてきたそうです。
(財津さんは、戦後間もない頃に熊本の焼け野原で観たミュージカル映画を見て芸能界に憧れ、歌を始めたことを思い出したのだそうです)
退職願を持って「吉本興業」の専務を尋ねるも居留守を使われる
そこで、財津さんは、「吉本興業」を退社する決意をし、退職願を持って、吉本の受付に行き、専務に面会を求めたそうですが・・・
専務は居留守を使い、出てきてくれなかったそうです。
(当時、吉本では円満退社はなかなかできなかったそうで、財津さんが退職を考えていることを知った知り合いの新聞記者やディレクターは、「うまく仲介してやるよ」と言ってくれたそうですが、財津さんは一人で行ったのだそうです)
「吉本興業」の専務はすぐには退職を許してくれなかった
それでも、財津さんは、その後、何度も専務に面会を求めて受付を訪れたそうですが、やはり、その度に、専務には居留守を使われたのだそうです。
そこで、居留守も5度目となった時、ついに、財津さんは、受付の目を盗み、一人でこっそりと専務室に忍び込むと、専務は、上着を脱ぎ、ネクタイ姿で書類を整理していたそうで、
財津さんが思い切って、
ちょっと1分ばかし、お願いがあって来ました。1分で済みますから
と、切り出すと、
専務には、
なんや?
と、面倒くさそうに言われたそうですが、
財津さんが、負けまいと、
私、お尻が青いうちにもう一度、江戸で勉強したいことがございます
と、言うと、
専務は、
分かった。3年待てや。会社ももうけさせてもらわな困るねん
と、何もかもお見通しで答えたのだそうです。
ただ、財津さんは、この時、すでに32歳になっていたそうで、
ブロードウェイやるには、最後のチャンスです
と、必死に食い下がったそうですが、
専務は、
ええやないか、ええやないか
と、言って、まるで聞き入れてくれなかったのだそうです。
「吉本興業」退社後は東京に戻りブロードウェイミュージカルに数多く出演
ただ、財津さんも、「吉本興業」にはお世話になったと、恩を感じていたことから、これ以上、食い下がることはできなかったそうで、
結局は、専務の言う通り、それから3年間、「吉本興業」で働き、1969年、ようやく、「吉本興業」を無事、円満退社することができたのだそうです。
ちなみに、その後は、東京に活動拠点を戻し、俳優としての活動に専念すると、念願叶い、数多くのブロードウェイミュージカルにも出演したそうで、「マイ・フェア・レディ」や「アニー」などで大役も務めることができたのだそうです。
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