明治大学在学中に、ひょんなことから英語劇コンテストのオーディションに出て合格し、お芝居に目覚めた、原田大二郎(はらだ だいじろう)さんは、大学卒業後の1967年には「劇団文学座」に入座すると、1970年には、デビュー3作目で映画「裸の十九才」の主演に抜擢され、いきなり映画賞新人賞を受賞。1975年にはテレビドラマ「Gメン’75」で一躍人気を博すのですが・・・


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年齢は?出身は?身長は?事務所は?本名は?

原田さんは、1944年4月5日、
神奈川県横浜市生まれ、山口県育ち、

身長179センチ、

胸囲110センチ、
胴囲106センチ、

靴のサイズは28センチ、

血液型はO型、

学歴は、
山口県立熊毛南高等学校
⇒明治大学法学部卒業、

趣味は、囲碁、

事務所は、
ロビンフッドアーチスツ、

ちなみに、
原田大二郎は本名です。

英語劇コンテストのオーディションで合格

原田さんは、大学在学中、
英語部に在籍されていたそうで、

ある時、同じ部員から、
5大学英語劇コンテストの作品に出演してほしいと、
5時間にわたり説得されるのですが、
お芝居に興味がなかったため、断ったそうです。

ところが、最後に、

「オーディションに落ちるのが怖いんだろう」

と言われたことでカチンときてしまい、

「合格してもお芝居をやらない」

という条件で、オーディションを受けに行くことに。

すると、オーディションでは、
「バイトから帰って来たら母危篤の電報が来た」
というエチュード(即興劇)をやらされたそうですが、

エチュードという言葉すら知らなかった原田さんは、
とにかくやってみると、

頭で想像した、「ハハキトク(母危篤)」
という電報の文字が見えた瞬間、
期せずして、どっと涙が溢れたそうで、

原田さんは、

これはなんなんだ、演劇はただ事じゃないな。

と、思ったのだそうです。

お芝居に目覚める

こうして、原田さんはオーディションに合格されると、
結局、5大学英語劇コンテストの作品「メディア」に、
主人公のジェイソン役で出演することになるのですが、

不思議なことに、言っているセリフが、
声帯を通っている感覚がないにもかかわらず、
ちゃんと響き渡っていたり、

「大事なセリフだから大きな声でゆっくり。ここまで来たら畳み掛けろ」

「お客さんから顔が見えないぞ、もう少し前を向け」

などと、頭の中でもうひとりの自分が、
演出をつけていたそうで、

この感覚がとても気持ち良かったうえ、
舞台が終わり、先輩が泣いていたのを見て、

芝居が人を感動させることに気づき、
生涯を通して追求したいテーマだと思われたのでした。

映画「裸の十九才」で主演

この体験から、原田さんは大学卒業後の1967年には、
「劇団文学座」に入所して演技の基礎を積まれると、

1970年には、
「エロス+虐殺」で映画デビュー。

そして、続く、
「橋のない川 第二部」に出演され、

その次の3作目で、1968年に実際に起こった、
「永山則夫連続射殺事件」を題材にした「裸の十九才」で、
新藤兼人監督から主演の永山則夫役に抜擢されると、

この作品は、「モスクワ国際映画祭金賞」を受賞。
原田さんも、この年の「エランドール新人賞」
「70年度映画製作者協会新人賞」を受賞されたのでした。

「裸の十九才」より。

「裸の十九才」が原田さんの映画デビュー作として紹介されることが多いですが、
 実はデビュー作は「エロス+虐殺」で、「裸の十九才」は主演デビューです。)

新藤兼人監督との出会い

そんな原田さん、実は、デビュー2作目の、
映画「橋のない川 第二部」を京都で撮影されていた際、

デビュー作「エロス+虐殺」の助監督が、
まだ無名の俳優だった原田さんを気に入って、
新藤兼人監督に推薦してくれていたそうで、

新藤監督が原田さんに会いたがっているとの話を聞き、
進藤監督に会いに帰京されているのですが、

いざ新藤監督に対面すると、とにかく、
「お前の本質を見抜くぞ」と言われているかの様な、
監督の眼力の強さに驚かされたそうで、

原田さんも負けじと、口では世間話をしながらも、
すごい眼力でにらみ返してしまったそうです。

新藤兼人監督

その後、監督から手渡された台本(「裸の十九才」)は、
とても泣けるもので、ぜひともこの映画に出演したいと思われるも、
監督をにらみ返してしまったため、諦めかけていたのですが、

翌日、監督から、

「君でいくから準備しておいてくれ」

との連絡があったそうで、こうして原田さんは、
「裸の十九才」の主演に抜擢されたのでした。

ちなみに、その撮影現場は、もういつ死んでもいい、
と思えるくらい、刺激的な現場だったそうで、

原田さんのその後の役者人生を左右する、
大きな転機となったのでした。

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「Gメン’75」で一躍ブレイクも自ら降板~その理由は?

その後、原田さんは、
活動の場を映画からテレビへと移されると、

1971年「お登勢」
1972年「新・平家物語」
1973年「雪国」
1974年「水もれ甲介」

「新・平家物語」より。手前が原田さん。その奥は郷ひろみさん。

「水もれ甲介」より。原田さんと石立鉄男さん。

など次々とテレビドラマに出演。

そして、1975年には、「Gメン’75」で、
関屋一郎警部補役を演じられると、
一躍、全国に名前を知られるようになるのですが・・・

「Gメン’75」より。
(左から)藤木悠さん、原田さん、岡本富士太さん。

1976年には、原田さん自ら、
申し出て降板されているのです。

というのも、原田さんいわく、

降板については色々と噂されましたが、
今考えると単純にノイローゼだったのかな。

あのドラマは走ることで成り立っていたので、
四六時中走っていたんです。

3本に2本は僕が主役の話だったんですが、
脇にまわる時まで走らされて(笑)

最後の事件解決の時にだけ、
無理やり走るシーンを入れたりね。

とにかく走り続けで、太ももが腱鞘炎になって治らない。
ついに船の撮影でハッチに落ちるという事故が起こり、
膝の皿にヒビが入り、アバラが折れ、3日間休みました。

通っていた医者が、「良かったです。このままでは、
足が腐ってしまうのではと心配していました」と言ったほど。

と、明かされており、
大変な撮影にストレスを抱えられていたそうで、

そんなある日、試写を見たプロデューサーが、

大二郎疲れているな

と言われたそうで、

それを聞いた原田さんは、

誰が疲れさせているんだ!

とブチギレ、すぐに監督に電話して、
降板を申し出たそうで、

その後、プロデューサーと話し合いをすることになり、
朝まで7時間説得されたそうですが、

最終的には、プロデューサーが折れて、
原田さんの希望通り、降板となったのだそうです。

(ちなみに、その後も、そのプロデューサーは、
 尾を引くことなく仕事をくれたそうですが、原田さんは、
 その撮影では落馬して骨折してしまったそうです)

「原田大二郎の現在は?妻は?息子が難病でいじめ?出演ドラマ映画は?」に続く

https://www.youtube.com/watch?v=B00Vw-03EfE

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